『なぜ生きる』を読んで
大のB’zファンである私が『なぜ生きる』を手にとったのは、当初単純に「B’zらの言葉」という謳い文句に惹かれてのことだった。
このずっしりと重い本には、いったいどれだけの生きる理由が詰まっているのだろう。
いざ読むときになって私はそんなことを考えた。
実際私は悩んでいた。
なぜ生きるとかそんなことの前に、なぜ人生には目標がなければいけないのかと悩んでいた。
この「目標」は人生の一貫した目的のほうをさしている。
なぜひとつのこと、そのために、そこにたどりつくために努力したほうがいいのだろう。それが悩みのタネだった。
私は妥協案が嫌いである。「とりあえず」ではなく何かはっきりとした結果がほしいという性格だ。
しかし、ひとつだけ「とりあえず」で済まさなければいけなかったことがある。
それは「なぜ生きなければいけないのか」だ。
何か人生の根源を悩むタネがあるわけではない。
ただ悪く言ってしまえば「死ぬ理由がない」というのが生きている訳であるのが嫌なのかもしれない。
「なぜ生きなければいけない」答えがない質問を自分に問いかけては、考えても仕方がないではないかと思う。
それでも知りたい、とまた同じことを繰り返す。
そのたびに「今はテスト前だ」「これから英検だ」「やらなければいけないことがたくさんある」と、小さい区切りで言い訳をしていた。
それが嫌でたまらなかったが、それでも答えは出なかった。
「『人生の目的は人それぞれ』と言う人が思い浮かべている目的とは、大学合格、英会話をマスターする、スポーツ大会優勝、恋人を得る、安定した職に就く、マイホーム、大金持ちになる、ノーベル賞……などではないでしょうか。
しかしそれらは、”とりあえず今はこれを目指す”という、人生の通過駅であり、『目標』と呼ばれるものであって、『人生の目的』といわるべきものではありません」
これはまさに私が考えていたことだった。
結局すべての通過駅にたどりついてしまうと人生が終わる。しかしどれひとついつまでものこるものではない。
どんなに大きな理想も、永遠に自分のものではなく、後世の人々へと受け継がれていく。
尊敬を得ても、名声を得ても、人の役に立ってもやはり、ひとつの目的とは何かは謎のままかもしれない。
実はこの本を読み始める前に、残念な知らせが届いていた。
母の友人のお姉さんが自殺で亡くなってしまったのだ。
その方は妹さんから私の文章を紹介されてよく読んだり、近隣の方々に紹介したりもしてくださったそうだが、結局一度もお会いすることもお礼を言うこともできずにお別れとなってしまった。
そのことを知ったとき、もしすこしでもはやく「なぜ生きる」を読んで何か書いていればと後悔の気持ちでいっぱいだった。
実際に止めることができたかは自信がない。それでも何かの役には立てなかったのか。
「後悔先に立たず」とはまさにこのことだった。
その悲しみとともに読み始めたこの本の中には、はっきりと生きる理由がひとつ書いてあった。
「苦しみの絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」
偶然この言葉を語った本人は私と同じ名を持つ親鸞聖人。
浄土真宗を開き「悪人こそが救われる」と説いた人と言われる親鸞聖人は私の心に強く残っていた。
「『悪人』とは人間全般を指す」とこの本に教えてもらったときも、きっと彼は慈しみ深く、心の広い人物だったのだろうと私はその言葉を読むたびに思わず想像してしまった。
一体何が悪かったのか、一体なぜか、一体どうすれば……そう悩みぬくことで人生の目的ははじめて分かるのではないか。
私はそう解釈した。
「なぜ生きなければいけないのか」分からない。知りたい。
だからそれが分かるまでは絶対に生きていなければいけない。
そうでなければもう永遠に生きる意味なんて分からない。
それは嫌だ……もしかしたらこれもひとつの人生の目的なのかもしれない。
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