今まで普通にできていたことが、できなくなる
私は医学部在学中に線維筋痛症を発症し、治療をしながら医師国家試験に合格しました。
現在も通院しながらではありますが、医師として医療現場で働いています。
過去の自分の闘病記録を読んでいると、病気による症状に苦しむのと同様に、当時、つらかったことが綴られています。
線維筋痛症に限った話ではありませんが、感染症などの一時的な治療で治る病気をのぞき、多くの病気はある種の喪失体験といえます。
喪失体験というと、身近な人や大切なペットの死などが有名ですが、そんな大きな出来事ではなくても、小さな喪失も、当事者にとっては大きな体験となります。
例えば、私の場合は、「今まで普通にできていたことができなくなっていく」という経験がありました。
それは、「好きな洋服を着ることができなくなった」という小さなことから、「自分の足で歩けなくなる」という大きなことまで、さまざまでした。
痛みで服装が限られてしまい、当時はパンツスタイルは全くできませんでした。
スカートも肌に触れると痛みが出るため、朝に一度我慢してレギンスを履き、ワンピーススタイルが定番でした。
大好きなヒールも履けなくなりました。
「そんなこと、病気なんだから我慢すればいいじゃないか」
ごもっともな指摘かもしれません。
好きなファッションを楽しめなくて死ぬわけでもありません。
でもやはり、小さなことであっても喪失をするということは、とても悲しいことです。
最も精神的ダメージの大きい喪失とは
病気なのだから仕方ない、我慢しなければならない、というのはある程度仕方のないことです。
患者本人も受け入れなければ前へは進めません。
でも、ここで大切なのは喪失体験を話すことができ、理解してくれる人がいることではないかと思います。
人は思いや気持ちを言葉にすることで状況を客観視することができ、受け入れていくことができるのではないでしょうか。
喪失体験を繰り返すと、病状や立場によってはさまざまなものを失っていくことになります。
それは、自分自身のことであったり、目に見えるものであったり、見えないものであったりと、人それぞれです。
その中で、精神的ダメージの大きい喪失は、「役割の喪失」と「社会とのつながりの喪失」ではないかなと感じています。
多くの人は無意識のうちに、自分に役割があり、社会や人の役に立っているという思いによって、自分の存在意義を作り上げています。
例えば仕事をしている人は、仕事をとおして誰かの役に立っていると感じたり、お金を稼ぐことによって家族を養ったりしています。
仕事ができなくなれば、社会での自分の居場所を失い、家族に養ってもらう側になります。
主婦であれば家族を家庭で支えていた立場が、家のことができなくなり、さらに治療により支出を増やしてしまうという思いにもかられるでしょう。
病気のため外出が難しくなれば、人と会うこともできなくなり、ましてや新たな出会いというのはなかなかありません。
ここ数年でインターネットが格段に進歩したため、こういった孤独感は少し薄れてきているようにも思いますが、リアルなやりとりは確実に減ります。
「社会にとってはもちろん、家族にとっても自分は必要な存在なのだろうか?」
「足手まといなだけなのではなかろうか…」
と、闘病期間が延びれば延びるだけ考える回数が多くなってくるのは想像に難くありません。
こういった喪失体験は誰にでもあるということを、当事者もその周囲の人も知っておくのは大切なことだと思います。
25歳で杖が必要になった私が、母へ書いたお詫びの手紙
私自身の経験でいえば、杖を使い始めた時が大きな葛藤だったように思います。
特に足の痛みが強かったため体重を足にかけるのがつらく、手も痛いけれど杖を使ったほうがマシでした。
杖を使うことなんて、大したことじゃないのではないかと思われるかもしれませんが、25歳の女性にとって杖は普通、無縁のものです。
あったとしても松葉杖のように一時的なもの。
私の場合は「一度杖を使うようになったら戻れないのではないだろうか」という恐怖が強かったように思います。
病状が進行していくことに私自身も不安でしたが、何といっても一番近くで見守っている母が心配でした。
「私が杖を使うようになったら母は一体どう思うのだろうか?」
「ただでさえ自分を責めて、代われるものなら代わってやりたいと思っている母を苦しめるのではないか…」
杖を使うという決断をした時、私は母に手紙を書きました。
「ごめんね」と。
私も母の理想の娘でいたかったし、母を悲しませることはしたくなかった。
だからこその「ごめんね」。
取り戻せないものがあっても、あなたのままでいい
今、私は一度失ったものを一つ一つ拾い上げるように取り戻しています。
それはとても幸いなことです。
多くの場合は、手放したものは、そのままもう自分の元へは帰ってこないことのほうが多いと思います。
だからこそ、少しずつ元に戻っている日常を大切にしていきたいと思っています。
もちろん失ったまま、まだ戻ってないものも多くあります。
取り戻そうと努力はしていますが、現実的に難しいものもあります。
諦めているわけではありませんが、今の自分を受け入れることも大事なことです。
これができるから私がいてもいいのではない。
どんな私でも、どんなあなたでも、いていいのです。
「私は私でいいんだ」という自己肯定感をしっかり育ててくれた両親に感謝して毎日を少しずつ進みたいと思います。
どんなあなたであっても、大丈夫。
そう、一緒に空を見上げて顔晴って(がんばって)みませんか?
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