こんにちは。国語教師の常田です。
「人生、安らかな最期ならば未来も幸せ」と思う人は、千年前も現代も多くいますが、紫式部はそんな常識を覆します。さすが千年に一度の才女!ですね。
藤壺の決断
光源氏の心を傷つけることなく執拗な恋情を避け、息子の将来を守るには…。この難局を乗り切るため、ついに藤壺は苦渋の決断をします。
それは桐壺院の一周忌から間もなくのことでした。
法要の場で突如、藤壺は出家を表明、そのまま髪を下ろしてしまったのです。
予期せぬ展開に多くの人が狼狽し、大騒ぎになりました。
中でも源氏はあまりの衝撃に絶句し、茫然自失、立ち上がることもできません。
当時、出家した女性との交際はタブーでしたから、源氏にとって藤壺は本当に手の届かない存在になってしまいました。
尼となった藤壺へ、源氏から歌が届きました。
月のすむ 雲居をかけて したうとも このよのやみに なおやまどわん
(あなたを慕って、私も澄んだ月のような出家の境地へと願うけれども、子のいるこの世界でいまだ煩悩に惑い続けることでしょう)
あまりの悲しさに、後を追って出家したいが、後見しているわが子を見捨てるわけにはいかない。
“どうして私を置いてあなただけ…”と藤壺を責める気持ちが歌にあふれています。
返す藤壺も、変わらぬ苦衷を訴えました。
おおかたの うきにつけては いとえども いつかこの世を 背き果つべき
(すべてが儚く思われて出家しましたが、子のいるこの世の執着をどうして断ち切れましょうか、いまだ苦しんでいるのです)
出家して大方の事態は打開できても、源氏との間に不義の子を生んだ罪悪感だけは、消えるはずがありませんでした。
光源氏と藤壺の子・冷泉帝
朱雀帝(弘徽殿の息子)在位中は、藤壺にとって不遇の時期でした。
離れて暮らすわが子を念じつつ、静かに仏事を勤める日々を送ります。
やがて状況が好転したのは、朱雀帝が譲位し、息子が新しい帝(冷泉帝)となった時でした。
出家の身といえど、帝の母。宮中に堂々と出入りできるようになり、上皇に準ずる位も得ました。
彼女は都の人のみならず、山暮らしの仏道修行者にも慈悲をかけて施しをし、多くの人々に敬愛されます。
地位・人望・美貌など、あらゆるものを兼ね備え、「かかやく(輝く)日の宮」の名声のごとく、彼女の人生が最も輝いていたのがこの頃でしょう。
ところが、それも長くは続きませんでした。
やがて藤壺は重い病気にかかり、果物さえ口にできなくなるほど衰弱していきます。
わが人生を顧みて、「世の栄えも並ぶ人なく、心の中に飽かず思うことも人にまさりける身(この世の栄華は肩を並べる人がないけれど、同時に心の中で際限なく苦しみ悩んだことも誰より多い身の上だった)」と知らされるのでした。
見舞いに来た光源氏に、最後の力を振り絞って感謝の言葉を述べ、そのまま灯火が消えるように息を引き取りました。
37歳でした。
愛する人を失った光源氏の悲哀
藤壺の死を世間中が悲しみますが、源氏の悲哀はそれと比べものになりません。
源氏にとって藤壺は、実母の面影を宿した、永遠の女性でした。
源氏は念誦堂に籠って、一日中泣き暮らしました。
入日さす みねにたなびく 薄雲は もの思う袖に いろやまがえる
(夕日がさす峰には薄雲がたなびいている。雲の薄墨色は、愛する人の喪に服する私の袖の色に似せたのか)
悲しみながらも源氏には、安らかな藤壺の臨終がまぶたに焼きついていました。
安らかな世界にいるに違いない、と信じていたでしょう。
ところがある時、彼女が死んでなお一層苦しむ夢を見たのです。
源氏は愕然として、動揺します。
胸が締めつけられ、源氏は、いつの日か藤壺と極楽浄土の同じ蓮の台に生まれたい、と阿弥陀仏をひたすら念じるのでした。
源氏物語全体のあらすじはこちら
源氏物語の全体像が知りたいという方は、こちらの記事をお読みください。
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