有名な父がプレッシャーに。コンプレックスの日々
「清少納言って、名前ではないですよね」
そう言われれば、確かに、そうです。
宮仕えに出てからの、仕事上の名前です。
では、本名は?
調べても出てきません。「清原元輔の娘」としか伝わっていないのです。
父・清原元輔は、身分の高い貴族ではありませんでした。しかし、有名な歌人でした。これが、彼女の大きなプレッシャーになっていました。
実は、歌を詠むのが苦手。
「親が名人だから、その子も、うまいに違いないと見られるのが、嫌なのです。下手な歌を詠んだら親に申し訳ないから、詠まないことにしています」
と告白しています。コンプレックスに苦しんでいたのですね。
16歳の頃に、貴族の名門・橘家の嫡男と結婚して、子供にも恵まれたのに、夫婦仲がうまくいかず、離縁……。
いいことなんて何もありません。
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ところが、清少納言が28歳になった頃に、関白・藤原道隆から、「娘のそばに仕えてくれないか」という誘いがあったのです。
関白とは、天皇の補佐をして政治を行う最高権力者です。
関白・道隆の娘・定子は、一条天皇に嫁いでいました。
当時の天皇には、政治的な思惑から、后が何人もいるのが慣例でした。
后の中の最高の位を「中宮」といいます。皇后のことです。
定子は、天皇の最愛の后であり、「中宮定子」と呼ばれていました。
関白・道隆は、自分の娘・定子の周りに、教育係になったり、話し相手になったりすることができる優秀な女性を、多く集めようとしていました。
后を中心として、知的なサロンを形成するままが、天皇の関心を呼び、愛を独占する方法であると、当時の貴族は考えていたのです。
このようにして宮仕えする女性を「女房」といいます。「房」とは「部屋」という意味です。一つの部屋(局)を与えられて、主人に仕えるのです。
関白・道隆は、どこで清少納言を知ったのかは分かりません。娘のために、いろいろと情報を集めているうちに、幅広い教養と、ひといちばい敏感な感覚を持っている清少納言を発見したに違いありません。
いざ、活躍の舞台へ。ところが、緊張のあまり・・・
清少納言は、いきなり、皇后定子に、「女房」として仕えることになったのです。
この時、定子は17歳。自分よりも、10歳以上も若い主人です。
清少納言というと、人前で物怖じするようなタイプではなく、何でもハッキリと言う女性というイメージが強いと思います。
ところが、『枕草子』を読んでみると、最初は、全く違ったようです。
定子の前に、初めて出た時のことを、次のように書き残しています。
「何をするのも恥ずかしく、涙が落ちそうになるので、昼間は、とても顔を出すことができませんでした。
夜になると、そっと、定子さまのおそばに参上して、衝立の後ろに座っていました。すると、定子さまは、『そんな所に隠れていないで、出ていらっしゃい』とおっしゃいます。
新参者の私に、わざわざ絵を差し出して見せてくださいました。でも、私は、受け取りたいのに、緊張のあまり、体がコチコチになって、手を出すこともできなかったのです。すると、定子さまは、優しく、『この絵は、こうなのよ。あの場面かしら……』と語りかけてくださいました」
自分をわかってくれる安心感が、主従の信頼関係に
優秀な新人だと思って採用したのに、昼間は出てこないし、何を聞いても黙っているし、絵を渡しても受け取らなかったら、普通は、怒られます。どなられて、その場で解雇されても、文句は言えません。
しかし、定子は怒りませんでした。清少納言の緊張をほぐそうと、優しく声をかけていきます。そして、その人が、本来、持っている力を、次第に引き出していくのです。
定子は、女房たちをよく見ていました。
そして、一人一人が、自分の持っている才能を最大限に発揮できる雰囲気を作っていきました。それが、そのまま一条天皇の后の中でも、皇后定子のサロンの文化レベルが格段に高まり、大きく花開いていったのです。
清少納言は、自分の才能を認め、自分を信頼してくれる定子を主人に持ったことによって、人生が大きく変わりました。
主従の信頼関係が、いかに深いものであったかは、『枕草子』の随所に表れています。
清少納言は、女性ではありますが、中国の『史記』の有名な言葉、
「士は己を知る者のために死す」
を座右の銘にして、
「主人・定子のために全力を尽くそう」
と心に誓っていたとしか思えない生涯を送っていきます。
『枕草子』の誕生秘話
ある時、天皇と定子の元へ、大量の紙が寄贈されました。当時、紙は、とても貴重な品でした。
定子は、清少納言に、こう言います。
「この紙に、何を書きましょうかね。帝は、中国の『史記』を写されるそうよ」
清少納言が、即答します。
「それなら、枕でしょう」
定子は、とても満足した笑顔で、
「じゃ、あなたにあげるね」
と言ったといいます。
清少納言が「枕」と言ったのは、中国の白楽天の詩に、
「書を枕にして眠る」
とあるからだといわれています。
「役所にいても仕事がないので、白髪頭の老長官である私は、書物を枕にして昼寝をしている」
という内容です。
即座に、この『白氏文集』の漢詩を思い出し、ユーモアたっぷりに答える清少納言の教養の広さに、定子は満足したのでした。
こうして、貴重な紙を受け取った清少納言が、主人・定子の周りで起きたこと、見たり、聞いたりしたことを、エッセー風に書き始めたのが『枕草子』になったのです。