こんにちは。国語教師の常田です。
大切な人を亡くした時、必ずといっていいほど「なぜあの時、あんなことを言ったのだろう。もっと優しく、大切にすべきだった」と後悔で苦しみます。光源氏もそうでした。
「幻の巻」のあらすじを解説します。
52歳になった光源氏は、昨秋亡くなった最愛の妻・紫の上との、追憶の日々を過ごしています。
そんな彼の最後の1年を、春夏秋冬の情景とともに描いたのが「幻の巻」です。
最愛の紫の上を亡くして失意の光源氏
六条院も新春を迎え、春の町ではいつものように、紅梅が咲き始めます。
しかし、源氏の心はますます暗く沈むばかりでした。
春を愛した紫の上は、もういないのです。
源氏は体調不良を理由に、新年の挨拶に詰めかける人々と会おうとせず、管弦の遊びも催しませんでした。
ただ1人、弟の螢の宮だけは自室に通し、わずかに心を慰めます。
わがやどは 花もてはやす 人もなし なににか春の たずね来つらん
(私の所にはもう、花を喜ぶ人〈紫の上〉もいないのに、何のために春が訪ねてきたのでしょう)
失意の光源氏は、新年の挨拶に訪ねてきた螢の宮に歌を詠みました。
紫の上亡きあと、この弟以外には、心を通い合わせ、花の美しさを共に楽しめる人はいません。
源氏はもう、他の妻や恋人の元に通っていくこともありませんでした。
独り寝の夜には、さまざまな女性関係で紫の上を苦しめたことが、次々と思い出されます。
紫の上を傷つけてきた過去
「まあ、ずいぶん雪が積もっていますわ…」
明け方、外を見て驚く女房の声が源氏の寝所に聞こえてきました。
彼の脳裏に、12年前の雪の朝の光景が強くよみがえります。
それは女三の宮を正妻として迎え、三夜続けて彼女の部屋で過ごした翌朝のことでした。
冷え切った体で戻ってきた源氏を、紫の上は優しく迎えてくれましたが、懸命に隠す袖が、涙でひどく濡れていました。
三日三晩、寂しさに耐え、紫の上の心身は凍りついていたことでしょう。
女三の宮との結婚には事情があったにせよ、最も大切な人を苦しませたことに変わりはありません。
「許しを乞いたい」と周囲を見渡しても、もう彼女の姿はこの世にありません。
罪とも悪とも思っていなかった数々の振る舞いが、どれだけ紫の上を傷つけ苦しめたか。
今になって恐ろしさが知らされるのです。
人格者・桐壷院が語る「罪」とは?
かつて、こんなことがありました。
20数年前、20代後半の源氏が、スキャンダルを起こして政界を追われ、須磨で謹慎生活を送っていたある日、亡父・桐壺院が夢に現れたのです。
不遇の身に天変地異が重なり、「海に身投げしたいほどつらい」と訴える源氏を、父は優しく諭しました。
「とんでもないことだ。今、おまえが受けているのは、まだほんの些細な罪の報いなのだ。私が帝位にあった時、失政はなかったけれども、自覚のないところで限りなく罪を造り続けていたために、今、その報いで苦患を受けている」
生前、失政もなく人々に慕われた桐壺院が、「おのずから犯しありければ」(知らず知らずに犯し続けていた罪があったので)と言う「罪」とは何か。
遺徳を長く語り継がれるような人格者だったのに、なぜ死後に苦しみを受けているのか…。
若い頃は不可解だった父の言葉。今の源氏には分かるような気がします。
源氏は何度も何度も過去を顧みます。
恵まれた環境にいながら、悲しみ嘆きの多いのは、諸行無常を知らせる仏さまのお導きであったのか。
なのに、その御心に背いてきた。結果、紫の上の死というかつてない悲劇に見舞われた、と。
そう嘆きつつ、仏道に打ち込んでいく姿には、かつての好色の名残はありませんでした。
うき世には ゆき消えなんと 思いつつ おもいの外に なおぞほどふる
(この憂き世から、雪が消えてなくなるように、私も消えて〈出家して〉しまいたいと思いつつ、心ならずもまだこの世で月日を過ごしている)
※ゆき消え~「雪消え」と「行き消え」の2つの意味を込めている掛詞(かけことば)
※ふる~「(雪が)降る」と「(月日が)経る」の掛詞
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- 螢の宮:光源氏と最も仲のよい異母弟
- 六条院:光源氏の大邸宅。春夏秋冬の4つの町に愛する女性たちを住まわせていた。「春の町」には亡き紫の上が暮らしていた。
- 女房:身分の高い人に仕える女性
- 須磨:現在の兵庫県神戸市にある地名
- 桐壺院:名前に「院」のつく人物は、過去に帝位にあった者
- 幻の巻:巻名は「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方たづねよ」という光源氏が詠んだ歌にちなんでいる。
源氏物語全体のあらすじはこちら
源氏物語の全体像が知りたいという方は、こちらの記事をお読みください。
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