光源氏の光と陰
光源氏(52歳)は、永年連れ添った最愛の妻・紫の上を亡くして以来、失意の日々を送っています。
幾度もわが人生を顧みては、「私は何の不足もない高い身分に生まれたが、誰よりも多く、つらく悲しい目に遭ってきた」と嘆きます。
確かに、帝の子として生まれた源氏は、容貌も学問も武芸も、人より抜きんでていました。
一方で、生後間もなく実母を失い、若くして正妻や父と死別し、そして今、最も支えとしていた紫の上にも先立たれてしまいました。
彼の人生が悲嘆の連続であったのは、どうしてなのでしょう。
実は、光源氏ほど、降りかかった災難を他人のせいにしてきた人はなかった、といえるのです。
例えば、源氏26歳の時、朱雀帝の寵愛する女官・朧月夜(おぼろづきよ)とのスキャンダルが露見し、政界を追放されてしまいました。
朧月夜とのスキャンダルが露見したのはなぜ?
当時、実質的に最も権力を握っていたのは、朱雀帝の母・弘徽殿(こきでん)の大后です。
永年敵対していた光源氏を、隙あらば追い落とそうと狙っていたのに、そんな危険な状況にありながら、朧月夜との恋にのめり込んだのは源氏自身です。
宮中で密会を重ね、彼女の実家まで、毎夜逢いにいくのですから、発覚は時間の問題でした。
この事件をきっかけに、大后によって官位を剥奪された源氏は、須磨に移って謹慎生活を送ろうと決めます。
親しい人々に別れを告げて回りますが、
「心に何一つやましいことはないのですが…」
「私自身に過失はないけれども、前世からの因縁でこんな目に遭うのだろうと思うと…」
「このような思いもかけぬ罪を被るのも…」
などと、己のタネまきを棚に上げて、真剣に嘆くのでした。
葵の上の死は生き霊のせい?
他人に転嫁できない時は、「物の怪」のせいにしました。
「物の怪」とは、当時人々に不幸や災難をもたらすと信じられていた生き霊・死霊・魔物等の総称です。
正妻・葵の上の出産の時がそうでした。
産気づき、苦しむ葵の上に源氏が付き添っていると、突然、彼女が全く別人の声で「助けて…」とうめきだしたのです。
その声は、源氏の年上の愛人・六条御息所そっくりでした。
出産したものの、葵の上は急死しました。
「これはきっと嫉妬深い御息所の生き霊のせいだ」と源氏は憎みます。
光源氏自身の心が生み出す幻影
また、源氏40代の頃にも、妻・紫の上に「亡き御息所とは、一緒にいて息が詰まった」と語るや、間もなく紫の上が病に倒れ、危篤状態に陥ったことがありました。
この時も源氏は、”御息所の物の怪のせい”とおびえました。
実は、この物の怪は光源氏にしか見えていないのです。
御息所を口説いていた時は熱心な源氏でしたが、いざ愛人になると、彼女のあまりにも高いプライドに息苦しさを覚え、敬遠がちになりました。
そんな彼の「後ろめたい心」が生み出した幻影が、御息所の姿をした”物の怪”だったのでしょう。
作者・紫式部はそう考えていたらしく、こんな歌を詠んでいます。
亡き人に かごとをかけて わずらうも おのが心の 鬼にやはあらぬ
(物の怪になって取りついてきた、と亡き人にぬれぎぬを着せて苦しんでいるけれども、それは自分の心が生み出した鬼ではありませんか)(『紫式部集』)
大病を患う柏木のつぶやき
自業自得が認められない源氏と対照的な人物が、柏木です。
彼はある事件を起こし、心労で大病を患います。
事情を知らぬ両親は、物の怪のしわざと思い、加持祈祷させることに必死になります。
しかし、柏木は一向に快復しません。
柏木は哀れな親心を悲しみ、「この苦しみの原因は、私の他にはないのに」とつぶやいています。
光源氏と比べたら、精彩を欠く人物かもしれませんが、この一点において目を見張らずにいられませんね。
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- 須磨:現在の兵庫県神戸市にある地名
- 正妻・葵の上の出産:光源氏22歳の時
- 『紫式部集』:紫式部が編纂したといわれる自撰歌集
- 柏木:源氏の息子の親友
源氏物語全体のあらすじはこちら
源氏物語の全体像が知りたいという方は、こちらの記事をお読みください。
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