日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #27

  1. 人生

歎異抄の旅④[京都・比叡山編]『歎異抄』ゆかりの地を歩む〜『徒然草』『平家物語』も、私たちに問いかける「旅立つ先」とは?

古典『歎異抄』の旅をしよう

歴史小説家の司馬遼太郎は、「無人島に1冊持ってゆくなら、『歎異抄(たんにしょう)』だ」と語っていたそうです。
司馬さんがそこまで言われる『歎異抄』とは、どんな古典なのでしょうか?
その魅力を探るために、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の旧跡を、木村さんが旅するシリーズです。
今回は、比叡山(ひえいざん)へ向かいます。比叡山といえば、海外の人にも人気のある観光地ですよね。

(前回までの記事はこちら)

(古典 編集チーム)


歎異抄の旅④[京都・比叡山編]『歎異抄』ゆかりの地を歩む〜『徒然草』『平家物語』も、私たちに問いかける「旅立つ先」とは?の画像1
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」3月号に掲載した内容です)

比叡山はかつて……

比叡山へ登りましょう。
京都府と滋賀県の境にそびえる標高848メートルの山です。

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1200年以上も前に、伝教大師最澄が仏道修行のために山を開き、延暦寺(えんりゃくじ)を建立したのです。
延暦寺が発行する「比叡山めぐり」パンフレットには、次のように書かれています。
「多くの名僧がここで修行して宗祖となり、比叡山は『仏教の総合大学』『日本仏教の母山』と呼ばれるようになりました」
今でこそ、世界文化遺産に登録され、観光客でにぎわっていますが、かつては、仏教を学ぶ最高学府(大学)であり、全国から俊才が集う場所だったのです。

親鸞聖人は、4歳の時に父を、8歳の時に母を亡くされました。相次ぐ父母の死に接し、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と、強く無常を感じられたのです。
自分の「死」を見つめると、
「この世が終わったら、どこへ旅立つのだろう」
「死後(後生)は、あるのか、ないのか」

など、次々と疑問がわいてきます。
このような、
「死んだらどうなるか分からない心」
を、仏教では「後生(ごしょう)暗い心」といいます。
「後生暗い心」を解決して、この世から永遠の幸福になることが仏教の目的なのです。

宮本武蔵ゆかりの、一乗寺下り松

「死んだらどうなるか」の大問題を、仏教では、
「生死(しょうじ)の一大事」
「後生の一大事」

ともいわれます。
親鸞聖人は、生死の一大事を解決するために、9歳で出家を決意し、比叡山延暦寺の僧侶になられました。
青蓮院(しょうれんいん)で出家された親鸞聖人は、どんなルートで比叡山へ向かわれたのでしょうか。
当時は、比叡山のふもとにそびえる「一乗寺(いちじょうじ)下り松(さがりまつ)」を目印にして進み、雲母坂(きららざか)から山頂を目指すのが最短コースでした。

では、まず青蓮院から「一乗寺下り松」を目指しましょう。
京都市内から京阪電車で北へ向かいます。
終点の出町柳駅で降りると、比叡の山並みが目の前に迫ってきました。
ここから叡山電車に乗り換え、一乗寺駅へ。
ホームには、なんと、
「宮本武蔵・吉岡一門 決闘の地(一乗寺下り松)…当駅下車」
と大書されているではありませんか。

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「一乗寺下り松」……どこかで聞いた名だと思っていたら、吉川英治の小説『宮本武蔵』で有名な場所だったのです。
武者修行に歩く武蔵は、ある日、京都の吉岡道場を訪れ、試合を申し込みます。
門人たちは、
「この田舎者が、何を言うか」
と、あざ笑います。
しかし、道場の当主・吉岡清十郎までが、武蔵に敗れたのです。伝統ある吉岡道場の名誉は、地に落ちてしまいました。
憤る吉岡一門は、一乗寺下り松へ武蔵を呼び出します。果たし合いです。
「試合」なら、一対一の戦いなのに、吉岡側は百人近くの武者を集めて待ち伏せをしています。下り松の樹上には、鉄砲を構えた男まで隠していました。
そんな中、武蔵は、下り松へ向かって、一人で斬り込みます。
吉川英治は、次のように書いています。

 親鸞や、叡山の大衆(だいしゅ)が都へ往来(ゆきき)した昔から──何百年という間をこの辻(つじ)に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喊呼(かんこ)して歓(よろこ)ぶのか、啾々(しゅうしゅう)と憂(うれ)いて樹心が哭(な)くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風(むふう)を呼ぶたびに、傘下の剣と人影へ、冷たい雫をばらばらと降らせた。
(『宮本武蔵』より)

この小説からも、親鸞聖人が比叡山と都を往復される時には、「一乗寺下り松」の前を通っておられたことがうかがえます。
きっと、樹齢数百年もの大木であり、遠くからも見えるに違いないと思って、一乗寺駅から山の方向へ歩き始めました。
すると間もなく、道路が交差するあたりに、
「宮本 吉岡 決闘之地」
と刻まれた石碑を発見しました。
その横に、高さ3〜4メートルほどの松があり、「一乗寺下り松」と記されているではありませんか。小説のイメージが強すぎたので、「えっ、これが……」と言ってしまいましたが、間違いありません。今の松は、四代めだそうです。

800年前、9歳の親鸞聖人は、この松の前を通って比叡山へ向かわれたのですね。

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『徒然草』のアドバイス

仏教の目的は、生死の一大事の解決です。

こう言うと、
「なぜ、若い時から『死』について考える必要があるのか」
と疑問を持つ人もあるでしょう。

兼好法師は、『徒然草』の中で、次のように優しくアドバイスしています。

(意訳)
自然界には、春の次に夏、夏の次に秋、秋の次に冬という、決まった順序がありますから、やがて来る暑さや寒さの備えをすることができます。

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 ところが、人間界の「死」は、順番を守りません。しかも「死」は、人間の予想どおりに、必ず前から来るとは限らないのです。全く思ってもいないうちに、自分の後ろから忍び寄ってきます。
人は誰でも、「自分も、いつかは死ぬ」と頭では分かっていながら、「そんな急に死ぬはずがない」と信じています。ところが、そんな淡い期待は簡単に裏切られ、ある日、突然、死に直面するのです。
(第155段)

「無常の殺鬼」に敗れた平清盛

また、『平家物語』には、「死」のことを、
「無常の殺鬼」
と書かれています。
「殺鬼」とは、全ての人を殺す恐ろしい鬼のことです。
平清盛は、都を守る武士の立場から、とんとん拍子に出世して、この世の、地位も、名誉も、財産も、全て手に入れたような男でした。
『平家物語』には、清盛が病に倒れ、亡くなっていく姿が、次のように描かれています。

(意訳)
閏2月4日、清盛は、ついに、悶え苦しみながら死んでいきました。64歳でした。
いざという時には、命に代えても、清盛を守ると忠誠を誓う軍勢が、数万人も屋敷の周りに待機していました。しかし、「死」という目に見えない敵、「無常の殺鬼」という強敵を、追い返すことはできなかったのです。
二度と帰ってくることのない死出の山、三塗の川を越えて、冥土の旅に、清盛は、ただ一人で向かったのでした。生前に、体と口と心でつくった罪が、獄卒となって迎えに来るのですから、まことに哀れに思われてなりません。
(巻第六 入道死去)

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どんなに地位、名誉、財産を集めても、「生死の一大事」の解決には役立ちません。

平清盛は、自分の周りを数万人の軍勢で守らせましたが、そんなもので、迫り来る「無常の殺鬼」を撃退することはできませんでした。
遅かれ、早かれ、いつか必ず襲ってくるのが「無常の殺鬼」です。

「生死の一大事」の解決の道は、仏教にしかないのです。だからこそ、親鸞聖人は、わずか9歳で、親族と別れ、仏教の最高学府であった比叡山延暦寺を目指されたのでした。

きらら坂に、ご恩を偲ぶ石碑

一乗寺下り松から、住宅街を抜けて雲母坂へ向かいます。
幅4〜5メートルほどの川に出合いました。欄干には「音羽川(おとわがわ)」と書かれています。
平安時代から、和歌に詠まれた風情ある川であり、この流域に「音羽の滝」があったはずです。しかし、今は、水路をコンクリートで固め、上流には砂防ダムが建設されています。台風で土石流が発生し、被害が多かったためです。
音羽川の上流に、比叡山への登山口「雲母坂」があるはずです。坂道の土砂には雲母が混じっていて、キラキラ光るので「雲母坂」と呼ばれ、「きらら坂」とも書くようです。

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音羽川沿いの道を、しばらく歩いてゆくと、「登山口 きらら坂」の表示が現れました。
砂防ダムの手前に木造の橋があります。その名も「きらら橋」。ようやく目的地に着いたようです。

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橋を渡ると、ダムの壁の前に、
「親鸞聖人御旧跡 きらら坂」
と刻んだ石碑がありました。

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「こんな所に、親鸞聖人のお名前が……」と驚かずにおれません。
おそらく、
「親鸞聖人が、この山でご苦労なされたからこそ、私は仏教を知ることができたのです」
と、ご恩を感じる人たちが建てたに違いありません。800年後の今日まで、脈々と続いている教えの力に、心を打たれます。

石碑の横には、車が通れるくらいの広い道が、山へ向かっています。

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安心して歩き始めると、
「比叡山登山口」
の表示が、森の中へ入れ、と指示しています。

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「まさか?」
どう見ても、道らしき道がありません。矢印に従って森へ入ると、人がやっと通れる幅だけ、土を踏みしめた跡があります。台風の被害でしょうか、あちこちの木が、無残に裂けて倒れています。山道を登りながら、
「雲母がキラキラと光っているはずだ」
と、足下を見つめても、むき出しになった木の根っこと、ゴツゴツ砕けた岩石ばかり。キラキラどころか、落ち葉で滑って転びそうです。

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こんなに険しい坂道とは知りませんでした。登山の装備をしてこなかったので断念し、引き返すことにしました。
親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、比叡山で修行されました。この険しい坂道を、何度も往復されたに違いありません。
雲母坂の入り口に、
「親鸞聖人御旧跡」
と石碑を建てた人たちの気持ちが、より深く伝わってくるようでした。


古(いにしえ)の人々の思いは、古典や石碑となって残っているのですね。
改めて、日本って素晴らしいなと思いました。
次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)


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