古典『歎異抄』を旅する
緊急事態宣言が全国で解除され、新しい生活様式を取り入れての日常が始まりました。変化が求められている今だからこそ、昔から読み継がれてきた古典に親しむと、ほっと心が落ち着くのかもしれません。
古典の名作の背景にある歴史や登場人物を知ると、より味わいが深くなりますよね。
『歎異抄(たんにしょう)』の魅力を探るために、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の旧跡を、木村さんが旅するシリーズです。
比叡山(ひえいざん)の山頂を目指して、きらら坂を歩いて登り始めましたが、木の根っこやら、ゴツゴツ砕けた岩石やら、険しい坂道に思わず断念。どうする? 木村さん。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」3月号に掲載した内容です)
ケーブルカー、ロープウェイで山頂へ
徒歩が無理なら、ケーブルカーとロープウェイを利用して山頂へ登ることができます。
一乗寺駅まで引き返し、再び叡山電車に乗り、終点の八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)駅へ。
11月下旬の紅葉シーズンでした。平日なのに、観光客で大混雑しています。
これは大誤算。
ケーブル八瀬駅には、切符を買うための長い列。飛び交う言葉は、英語、中国語、韓国語……。さすが、世界文化遺産に登録されているだけあって、海外から訪れる人が多いのです。
ケーブルカーは急斜面を駆け登ります。9分後に比叡の中腹に到着。
ここでロープウェイに乗り換えます。
空中に浮くガラス張りの箱。眺めはとてもよく、赤や黄色に色づく樹木の上を、ゆっくり飛んでいきます。外国人観光客から「オーッ」という声がもれ、スマートフォンで撮影する音が……。そうか、「オーッ」は各国共通なのだ、と納得。
比叡山頂駅に着くと、待合室には大きなストーブが焚かれていました。紅葉は美しくても、山の上は、実に寒いのです。
なかなか着かない「延暦寺」
ロープウェイから降りても、さらにバス停まで冷たい風に吹かれながら10分ほど歩きます。
シャトルバスに乗って、「延暦寺バスセンター」で下車。ようやく比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の中心地に到着しました。
京都の青蓮院(しょうれんいん)からここまで、5回も乗り換えました。電車やバスを使っても、簡単に来ることができる場所ではありません。
「延暦寺」は、どこに?
延暦寺バスセンターは、高速道路のサービスエリアと同じ雰囲気です。広い駐車場があり、バスや車が多くとまっています。
大きな食堂も土産物店も、平日なのに、観光客で大混雑。
ここから延暦寺の境内へ入るには、受付で「巡拝料」を払う必要があります。
受付の女性に聞きました。
「延暦寺へ行きたいのですが、どこにありますか」
すると、意外な返事。
「延暦寺は、ないんです」
「えっ! ない? 学校の教科書にも、観光案内にも『延暦寺』と書いてありますよ」
「『延暦寺』という名の建物はありません。比叡山には、100以上のお寺があります。これらを全部まとめて『比叡山延暦寺』というのです。総称なんです」
なるほど! ここが奈良の東大寺や興福寺と違うところです。
住職がいない寺
「今日は、親鸞聖人ゆかりの寺へ行きたいのです。どこにありますか」
「親鸞聖人なら、無動寺谷(むどうじだに)の大乗院(だいじょういん)ですね。でも、せっかく行っても、誰もいませんよ」
「なぜ?」
「無住寺院になっていますから」
「住職がいない?」
「そうなんです。千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を行う人が大乗院の住職になりますが、今は、誰もやっていませんからね」
歩く距離が地球一周!?
千日回峰行は、比叡山の、最も過酷な修行です。行者が歩く距離は地球一周とほぼ同じなのです。
この難行を達成した僧が現れるとマスコミが大きく報道します。蓮華の葉の形をした笠をかぶり、白い死に装束で、ひたすら比叡の峰を歩く姿をテレビや雑誌で見た人も多いのではないでしょうか。
理由にかかわらず、途中で行を続けられなくなったら自害しなければなりません。そのため、千日回峰行の行者は、短剣と埋葬料10万円を常時携帯しています。それほど厳しい修行ですから、達成した僧は、戦後、14人しかいないのです。
親鸞聖人は「大曼行(だいまんぎょう)の難行(なんぎょう)」を成し遂げられたと伝えられています。今日の「千日回峰行」のことだと思います。
それでも大乗院を見てみたい
受付の女性に言いました。
「無住寺院でもかまいません。若き日の親鸞聖人が、厳しい修行に打ち込まれた大乗院を、見てみたいのです」
「では、ここから中へ入ると根本中堂があります。比叡山の総本堂にあたる建物です。そこから坂道をずっと下ってください。30分ほどかかりますよ」
根本中堂から坂道を下ると、ケーブル延暦寺駅が見えてきます。
「長さも、眺めも、日本一。坂本ケーブルで比叡山へ」
と宣伝しているように、滋賀県側から山へ登るケーブルカーです。
駅舎の屋上から、美しい琵琶湖を一望することができます。
観光客が多いのは、ここまでです。
駅を通り過ぎると「無動寺参道」の石碑が現れ、ここからは行き交う人もまれで、雰囲気が変わります。
道は整備されていますが、ヘアピンカーブのように曲がりくねっています。しかも、左側は深い崖。崩れかけた道もあるので、人が誤って落ちないようにロープが張ってありました。
参道の両側には、樹齢数百年かと思われる大木がそびえています。空を見上げても、樹木のトンネルの中にいるようです。
800年前の親鸞聖人の時代の空気も、こうだったのではなかろうか……と、たたずんでいると、チロチロと高音の楽器を演奏しているような音が聞こえてきました。山肌の岩から、水がわき出ているのです。
命懸けの修行に入る場所
さらに坂道を下っていくと、左手に明王堂が見えてきました。
千日回峰行の行者が、700日めを終えると、9日間、断食、断水、不眠、不臥の命懸けの修行に入る場所です。
そんな深刻な場所とは思えないほど、明王堂の境内のモミジは、真っ赤に色づいていました。眼下には、琵琶湖と滋賀県大津の市街地を見渡すことができて、とても景色のいいところです。
明王堂から急な斜面を下りた平地に建っているのが大乗院です。境内には、
「親鸞聖人御修行旧跡」
と刻まれた、大きな石碑がありました。
確かにここは、親鸞聖人がご苦労を重ねられた地なのです。
どうして、比叡山へ修行に入ったのですか?
無住寺院ではインタビューもできないので、バスセンターへ戻ることにしました。帰りは急な登り坂です。息切れがしそうな所に、ベンチが置いてあります。参詣者への温かい配慮なのでしょう。
途中で、参道の落ち葉を掃いている若い僧に会いました。黒い作務衣を着ています。
「こんにちは、掃除も修行の一つですか」
「はい、日課ですから」
笑顔で答えてくれる20代の青年です。
「どうして、比叡山へ修行に入ったのですか」
「僕は、在家ですから、もともと寺には関係ありません。会社で、人間関係が嫌になり、行き詰まってしまいました。そんな時、仏教を聞いたら何かあるんじゃないかと思って、ここへ来たのです」
「そうですか。この坂の下にある大乗院へ入られた親鸞聖人は、『死んだらどうなるか』の大問題に驚いて僧侶になられました。そういうことは、考えたりしませんか」
「『生死(しょうじ)の一大事』の解決を目指して修行する人もあるでしょうが、今は、どうですかね。周りには、いませんよ。人それぞれではないでしょうか」
「あなたのような若い人が、ほかにも、この比叡山へ修行僧として入ってきますか」
「寺の跡継ぎが修行に来ることがありますが、その数も減ってきましたね。だんだん寂しくなってきました」
『歎異抄』に記された言葉
何をきっかけに仏教に触れるようになるかは、人それぞれだと思いますが、お釈迦さまが仏教を説かれた目的は変わりません。
それを感じさせるエピソードが『歎異抄』に記されていました。
親鸞聖人の晩年に、何人もの人たちが、関東から京都へ、命懸けで、親鸞聖人を訪ねてきたのです。
彼らを迎えられた親鸞聖人は、どのような言葉をかけられたのでしょうか。
(意訳)
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。
(原文)
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり (歎異抄 第2章)
仏教を聞き求める目的は、生死の一大事を解決して、極楽へ生まれる身に救われること以外にはないと、親鸞聖人はおっしゃっています。
一貫して、ぶれない頼もしさが伝わってくるようですね。
この目的に向かって、親鸞聖人は、どのように進んでいかれたのか、次回も、比叡山の旧跡を巡っていきます。
時代や社会の変化によって、変わるもの、変わらないもの、があるのですね。それを知るのも古典の面白さ。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)
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