古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する
8月はもう目の前なのに、夏はどこへ?
と思いながら、テレワークをしていると、蝉の声が聞こえてきました。
なんだか、ホッとしますね。
夏といえば、蝉の声、スイカ、花火などが思い浮かびますが、昔ながらの夏の風物詩に触れると安心するのは、私だけでしょうか……。
昔から読み継がれてきた古典にも、そんな安心感があるのかもしれません。
もう一つ、テレワークで、家族との時間が増えました。父や母と、テレビを見たり、話をしたり、ゆったりと流れる時間に幸せを感じます。そういえば、古典にも、親と子の様々なエピソードが描かれてきました。
今回の古典の名著『歎異抄(たんにしょう)』ゆかりの地を旅する連載では、『源氏物語』に登場する比叡山(ひえいざん)の横川(よかわ)地域へ向かいます。そこには、ある高僧の母子の物語があったのです。それでは木村さん、よろしくお願いします!
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」5月号に掲載した内容です)
源信僧都ゆかりの恵心堂へ〜『源氏物語』との関係は?
今回は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の足跡を探して横川地域へ向かいましょう。
横川地域で有名な僧侶といえば源信僧都(げんしんそうず)です。親鸞聖人が、とても尊敬されている高僧です。
源信僧都ゆかりの恵心堂(えしんどう)を訪ねてみました。
横川中堂から、高い樹木に覆われた道を進んでいきます。
静かです。大自然の中を歩き、シーンとして澄み切った空気を肌で感じると、
「千年前も、八百年前も、こうだったのではなかろうか。源信僧都も、親鸞聖人も、この道を歩まれたに違いない」
と思えてきます。
10分ほどで、目的地に着きました。
境内の真ん中に、石畳の通路があり、その奥に建つ質素な寺が恵心堂です。
予想していたよりも小さな建物でした。ここで、源信僧都は仏教を学ばれ、多くの書物を執筆されたのです。
恵心堂の前には、意外な石碑がありました。
「『源氏物語』の横川僧都遺跡」
と刻まれています。
碑文を読むと、源信僧都は、紫式部が書いた『源氏物語』に何度も登場しておられることが分かりました。だから、この恵心堂は、『源氏物語』の遺跡にも当たるのです。
『源氏物語』にまで、尊い人格の高僧として登場する源信僧都とは、どんな方だったのでしょうか。
川原で遊ぶ幼き日の源信
源信僧都は、幼名を千菊丸(せんぎくまる)といいました。早くに父と死に別れ、母の手一つで育てられたのです。
幼い千菊丸が、川原で遊んでいると、川の水で弁当箱を洗っている旅の僧侶を見つけました。前日からの大雨で、水が濁っています。
千菊丸は、親切に、
「お坊さん、その水は汚いよ。あっちに、もっときれいな川があるんだよ」
と教えに行きました。
すると僧侶は、すっと立ち上がって、
「坊や、仏教では『浄穢不二(じょうえふに)』といって、この世にきれいなものも、穢(きたな)いものもないと教えられているんだよ」
と、もっともらしく答えたのです。
すると千菊丸、ちょっと首を傾けて、
「『浄穢不二』ならば、なぜ、洗うの?」
と聞き返しました。
率直で鋭い反撃に、僧侶は、ぐっと詰まってしまいました。
こんな子供に言い負かされたままでは引き下がれません。ちょっと懲らしめてやろうと思って、千菊丸に、こう言ったのです。
「坊や、十まで数えられるかい」
「そんなの簡単だよ」
「じゃ、やってごらん」
「いいよ、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十」
僧侶は、ニンマリして、
「おや、今、おかしな数え方をしたね。一つ、二つと、どれにも『つ』をつけるのに、なぜ十だけは『とお』と言って、『つ』をつけないのかな」
と、追及します。
すると千菊丸は、
「それは、五の時に、『いつつ』と言って、『つ』を二つ使ってしまったから、十の時には足りなくなったんだよ」
と、さらりと答えるではありませんか。
旅の僧侶は驚いてしまいました。
「こんな優秀な子を、出家させたら、必ずや偉大な僧侶になるだろう」
と思って、早速、母親に会いに行ったのです。
母の願い
「お子さんは、実に賢い。比叡山へ入れて、仏教の学問をさせたらどうでしょうか」
と勧めたのでした。
子供を手離したくないのは、どの親も同じです。しかし、千菊丸の母は、
「仏教を学ばせたほうが、この子のためにも、亡き夫のためにもなるだろう」
と考え、承諾したのです。
母は、千菊丸に、
「立派な僧侶になるまでは、二度と帰ってきてはなりませんよ」
と言って聞かせました。
千菊丸は、名を「源信」と改めました。
母との誓いを守って、一心不乱に勉学に励んだので、次第に
「比叡山に源信あり」
と有名になり、宮中でも評判になったのです。
ついに、時の天皇より、
「源信から、経典の講釈を聞きたい」
と、比叡山へ要請がありました。
この時、源信は15歳だったといいます。内裏へ赴き、天皇はじめ群臣百官に仏教を説きました。天皇は、若い源信の堂々たる弁舌に感嘆し、褒美として、七重の御衣、香炉箱などの珍宝を与えたのです。
晴れの舞台で大役を果たし、名声を博した源信の喜びは、天にも昇る心地でした。
「ああ、お母様にお伝えしたら、どんなに喜んでくださるだろうか」
源信は、早速、事の始終を手紙に書き、天皇から贈られた品々とともに、郷里の母の元へ送ったのです。
母からの手紙に泣く源信
ところが、間もなく、母から、全ての荷物が、送り返されてきました。
そこには、次のような手紙が添えられていました。
私は、片時も、おまえのことを忘れたことはありません。どんなに会いたくても、やがて尊い僧侶になってくれることを楽しみにして、耐えてきたのです。
それなのに、権力者に褒められたくらいで有頂天になり、地位や財物を得て喜んでいるとは情けないことです。名誉や利益のために説法するような、似非(えせ)坊主となり果てたことの口惜しさよ。
生死の一大事を解決するまでは、たとえ石の上に寝て、木の根をかじってでも、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではなかったのですか。
夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょう。生死の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。
そして、全ての人に、生死の一大事の解決の道を伝える、尊い僧侶になってもらいたいのです。 母より
手紙の最後には、次の歌が書き添えられていました。
後の世を渡す橋とぞ思いしに
世渡る僧となるぞ悲しき
源信は、泣きました。まさに徹骨の慈悲です。迷夢から覚めた心地で、ひたすら、生死(しょうじ)の一大事(いちだいじ)の解決を求めて、勉学に励んでいきました。
「今度こそ母に……」と思ったのに
それから25年以上の歳月が流れました。ついに、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)に救われ、生死の一大事の解決を果たした源信僧都は、
「今度こそ、お母様に喜んでいただける」
と、郷里へ向かったのです。
ところが、途中で、自分へ手紙を届けようとして急いでいる男に出会いました。何か胸騒ぎがした源信僧都、封を開いてみると、姉の文字でした。
「お母様は、もう70を超えられ、体が弱くなられました。ここしばらく風邪で寝込んでおられたのですが、ますます衰弱され、明日をも知れぬご容態です。そんな苦しい息の中から、源信が恋しい、源信に会いたい、と繰り返し言っておられます。どうか、少しでも早く帰ってきてください」
驚いた源信僧都は、ひたすらわが家へ急ぎました。
「源信です。ただいま帰りました」
母の耳元で、そっと告げると、
「よく帰ってきてくれたのう。今生では、もう会えないかと思っていた……」
とつぶやき、顔に、生気がよみがえってきました。
源信僧都は、すでに40歳を超えています。幼い日、比叡山に登ってから一度も顔を見ていませんが、母は、毎日、息子が仏法者の道を踏み外さないようにと念じ続けてきたのです。
今こそ母の恩に報いたいと、源信僧都は、仏法を伝えるのでした。
「阿弥陀仏は、『全ての人を必ず、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、できなかったら、仏の命を捨てよう』と約束なさっています。生死の一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ、決してできないのです……」
息子の説法を聴聞して、母も、阿弥陀仏の本願に救われて浄土往生を遂げたと、伝えられています。
遠く離れていても、母と子が、一つの目的に向かい、念願を成就したのでした。
親鸞聖人は、源信僧都から200年以上後に、比叡山へ入り、横川で仏教を学び、修行に励んでおられました。
しかし、場所は同じであっても、比叡山時代の親鸞聖人は、源信僧都が明らかにされた阿弥陀仏の本願にあわれることはなかったのです。
親鸞聖人は、晩年に、
「善知識(ぜんぢしき)にあうことも
教うることもまた難(かた)し」
とおっしゃっています。
「善知識」とは、生死の一大事の解決の道を正しく示してくださる仏教の先生のことです。
善知識が、どんなに近くにおられても、縁がなかったら、お会いすることも、教えを聞かせていただくこともできないのです。
親鸞聖人の、比叡山での求道は、まだ続きます。
次回は、比叡山の西塔(さいとう)地域へ向かって、親鸞聖人の足跡を訪ねてみましょう。
「この親にしてこの子あり」と言われますが、源信僧都の母子の物語に胸を打たれました。
次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)