「愚痴」は言葉ではなく心のこと
今回のテーマは「愚痴」です。
愚痴といえば、不平や不満をもらすこと。
愚痴を言う、愚痴をこぼす、愚痴話など日常でもよく耳にされるかもしれません。
実はこの「愚痴」も仏教由来の言葉です。
仏教では、私たちを苦しませ悩ませる心を「煩悩」と教えられます。
その煩悩の中の1つが「愚痴」です。
ですから、もともと仏教で教えられている「愚痴」とは言葉のことではなく心のこと。
どんな心かといえば、「うらみ・ねたみ・嫉妬」の心です。
「なんであの人ばっかり…」「どうして自分だけこんな目に…」などの思いが愚痴なのです。
その心が抑えきれずあふれ出て言葉になるので、今では愚痴といえば不平や不満を言うことになっています。
自分よりも勝っている人は許せない
童話「白雪姫」の話を例に考えてみましょう。
白雪姫の継母である王妃は大変美しい女性で、本人もそれを自負していました。
持っていた魔法の鏡に向かって「この国で一番美しいのは誰かしら?」と尋ねては、「それはお妃様、あなたです」と聞いて満足していたのです。
ところが年月が経ち白雪姫が成長すると、あろうことか、魔法の鏡は「一番美しいのは白雪姫」と答えるではありませんか。
王妃は白雪姫の美貌が認められず、ついには白雪姫を亡き者にしようとする、という話が童話「白雪姫」です。
「勝るをねたむ」と言われます。
人をねたんだり・嫉妬したりするのは、自分よりも優れた人、勝っている人に対してでしょう。
誰しも何かしらひそかに自負していること、プライドを持っていること得意としていること、こだわりを持っていることがあるはずです。
たとえば、ファッション、容姿、持ち物、家柄、学力、能力、仕事の功績、配偶者、子ども、などなど。
ところがその自負しているところで勝てない相手が身近に現れたらどうでしょうか。
童話・白雪姫の話でも、美貌を自負する王妃は、身近な白雪姫がどんどん美しくなり自分より評価されるのが我慢できませんでした。
「なんで私じゃなくて、あの子なのよ!」と、とても穏やかではいられません。
そして愚痴の心がより一層進むと、自分よりも勝っている人、優れている人の不幸を願ったりします。
そして最後には、王妃が白雪姫を亡き者にしようとしたように、「あの子さえいなければ…」と恐ろしいことまで考え出してしまうのです。
「愚痴」で行動しないほうがいい理由
ブッダは人をうらみ・ねたむのは大変愚かなことだと言われます。
ですから「愚痴」の「愚」も「痴」も共におろかという字です。
なぜ人をうらんだり、ねたんだりすることが大変愚かだといわれるのでしょう?
それは仏教では「自分のやった行いの結果が返ってくるのだよ」と教えられるからです。
これを前回「自業自得」といわれると紹介しました。
こちらの記事で解説しています。
自分よりも勝るものを持った人というのは、自分以上に努力してきた人だということです。
「なんであの人ばかりあんないい思いをしてるんだ」と思うのは、努力に応じた結果が現れるという自業自得の真理がわからない愚かな考えだとブッダは戒められています。
人をうらみ・ねたんで行動していく人は、やがてその行動の結果を自分が受けることになりますから、もっと辛くなっていきます。
自分で自分を苦しめることになるので、ねたみ・うらみというのは大変愚かな心であるとブッダは諭されているのです。
人のせいにしても幸せになれない
ところが私たちは自分の心の向きや行いには目がいきません。
人や環境のせいにする心(愚痴)が出てきてしまうのです。
たとえば、ドラマなどでこんな場面を見かけることはないでしょうか。
会社に新しく入ってきた若くてかわいい後輩が、仕事もできて上司に気に入られている。
そうなると、以前から職場にいる女の先輩はおもしろくありません。
「なんであの子ばかり評価されて、ひいきされるのよ!」と、ハンカチを引きちぎりそうなくらい悔しがるのです。
先輩女性としては、本来は自分ももっと仕事で貢献できるように努力したり、周りの人たちとより良好な関係が築けるような気遣いや心配りに励むべきなのでしょう。
ところが、なかなか自分の行いには目がいきません。
「あの後輩のせいで私はこんなに嫌な思いをしている」と考えてしまうのが愚痴の心なのです。
自分の行いに目を向けていければいいのですが、自分以外の人や物、環境に目がいってしまいがちではないでしょうか。
それでは幸せになれませんよとブッダは教えられています。
人のせいにしたり、人をうらんだり、環境が悪いと嘆いてばかりいては何も行いは変わりません。
それどころか、やつ当たりされたり、責任転嫁してくる人は好かれないでしょうから、人間関係も悪くなりますます苦しくなってきます。
愚痴の塊になると苦しみは減るどころか増すばかりなのです。
幸せになれる人の思考法
一方で世の中には、ほとんど愚痴をこぼさない人があります。
そんな人は、愚痴の心を持たない、心のきれいな人だと思うかもしれません。
しかし仏教では愚痴とは煩悩の1つで、すべての人が持つ心だと言われます。
どんな人でも愚痴の心はあるのです。
ですが、愚痴を言わないよう、こぼさないようにしている人たちがいるのも事実でしょう。
あの人のせいでこうなった、この人が悪いと愚痴をこぼすと、ますます人をうらんでしまいます。
人間関係がよくなるどころか溝が深まり、自分自身がより苦しくなってしまうでしょう。
そのことをよく知っているので、愚痴をこぼさないよう気をつけているのだと思います。
ですから、愚痴の心にとらわれ、あの人のせい、この人のせいと思うのは禁物です。
何か嫌なことがあった時にこそ、「どうすれば改善できるのか」と心の向きを変え、行動していくことが幸せへつながるのです。
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