古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する

読書をしている時、自分の知っている地名が出てくると、急に親しみがわいてきたりします。
この地で何百年も前に、こんな人がいたんだな、こんなことがあったんだな、となんだかタイムスリップした思いになります。
今回の『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載では、『平家物語』にも関係の深いところへ……。
木村さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅⑬[滋賀編] 木曽義仲、最期の地への画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します

(「月刊なぜ生きる」に好評連載中!)

「世の中のことは、うそ、偽りばかり」

親鸞聖人(親鸞聖人)が尊敬される聖徳太子の有名なお言葉に、
「世間虚仮 唯仏是真」(せけんこけ ゆいぶつぜしん)
があります。
「世の中のことは、うそ、偽りばかりである。いつまでも続く幸せは、どこにもない。ただ、仏の教えのみが真実なのだ」
という意味です。
「ひどいなあ! そこまで断言されなくてもいいのに……」
とささやく声が聞こえてきそうです。

そういう人には、興福寺(こうふくじ。奈良県奈良市登大路町)の僧侶でありながら、源平の動乱を戦い抜いた男、覚明(かくみょう)の経歴をお話ししたいと思います。

あっぱれ文武二道の達者

覚明がいた当時は、平家が権力を握り、日本中を思いのままにしていました。
平清盛は最高の官職である「太政大臣」に上り詰めました。清盛の子や孫も次々に昇進し、平家一門は「わが世の春」を謳歌していたのです。

出世を願う人たちは、清盛に近づき、少しでも気に入られようとします。清盛が右へ行けば、皆、右へ行きます。左を向けば、皆、左を向きます。まさに、風の吹く方向に、すべての草木がなびくような光景でした。

そんな中、源氏の一派が「平家打倒」を旗印に掲げて決起しました。源氏は、奈良の興福寺へ協力を求めます。
これを受け、興福寺を代表して返書を書いたのが覚明でした。
源氏を応援することを約束し、
「清盛入道は平氏の糟糠(そうこう)、武家の塵芥(ちんがい)なり」
(清盛は、平家のかすであり、武家のごみくずである)
と酷評したのです。

これを知った清盛は激怒します。

「ただちに覚明を捕らえて、死刑にせよ」と命じます。
覚明は奈良から逃げ出し、信濃(現在の長野県)へ向かいました。平家打倒に決起した木曽義仲(きそよしなか。源義仲)の軍勢に、書記・参謀として加わったのです。

誰もが、「あの巨大な平家が、倒れるはずがない」と思っていました。

ところが、義仲が、源氏の軍勢を引き連れて北陸から京都へ破竹の勢いで迫ると、状況は一変します。
恐れをなした平家一門は、自らの屋敷に火を放ち、都から西海へ逃げていったのでした。
都の人々は、大歓声で源氏を迎え入れます。歴史が大きく変わりました。
義仲の快進撃の陰には、覚明の働きが大きな役割を果たしました。

『平家物語』は、覚明を指して、
「あっぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける」
と記しています。

朝日将軍・木曽義仲

義仲は、平家に代わって京都で権力を握ります。太陽が昇るような勢いで現れたので「朝日将軍」と呼ばれるようになりました。

ところが義仲の栄光も続きません。
都の人々から、「平家の時のほうが、まだよかった」と苦情が出てきます。
貴族からは「田舎者!」と嫌われます。

後白河法皇は、義仲に「平家を討て」と命令したはずなのに、気が変わってしまいます。今度は関東にいる源頼朝に、「義仲を討て」と命じたのです。

関東から、義仲を討伐するための軍勢が京都へ迫ってきます。源氏同士で戦いが起き、義仲は敗北します。

唯春の夜の夢のごとし

それでも義仲は、
「同じ死ぬならば、よい敵と合戦し、大軍の中で討ち死にしたい」
と言って、少人数で突き進んでいきます。
最後には、義仲と、腹心の部下の二人が残りました。

義仲は、つい、
「日頃は何とも思わない鎧が、今日は、重くなったぞ」
ともらします。
部下は、主君を励まします。
「お体は、まだお疲れになってはおりません。どうして一領の鎧を重く感じられることがあるでしょうか。そのように弱気になられるのは、味方に軍勢がないので、心がひるまれたのではないでしょうか。たとえ私一人であっても、千人の武者がいるとお思いください。まだ、矢が七、八本ありますので、ここでしばらく防ぎましょう。あそこに、粟津(あわづ)の松原が見えます。あの松の中で、ご自害ください。無名の武者に討たれては残念です」

歎異抄の旅⑬[滋賀編] 木曽義仲、最期の地への画像2

名誉の死を重んじる部下の言葉に、
「そのとおりだ」
とうなずき、義仲は、ただ一騎で粟津の松原へ向かって馬を走らせました。

1月21日、肌寒い夕暮れ時でした。
薄氷が張っていたので、途中に泥沼のような深い田があることに気づかず、馬を乗り入れてしまったのです。
ざぶんと、馬の頭が見えなくなるほど、沈んでしまいました。腹を蹴っても、鞭で打っても、馬は動きません。

「しまった」

義仲が振り向いた瞬間に、一本の矢が飛んできて、兜の内側に立ったのです。
朝日将軍・義仲は、名もない武者が射た矢で討ち取られてしまったのです。
それは、義仲が天下の実権を握ってから、わずか数カ月後のことでした。

『平家物語』の冒頭には、
「おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし」
と書かれていますが、あまりにも急速な没落でした。

親鸞聖人のお弟子に

主君・義仲が戦死した後、覚明は比叡山(ひえいざん)へ入ります。落ち武者として身を隠したのかもしれません。
覚明が、興福寺を代表して平清盛を糾弾する書状を書いてから、わずか4、5年の間に、世の中が激変しました。
清盛は熱病で死亡し、平家一門は壇ノ浦で滅びました。
都から平家を追放した源義仲も、同族の頼朝に殺されました。
一般の人々にとっては、平家と源氏、どちらの時代が幸せか、分かりません。

聖徳太子が「世間虚仮」と教えられたように、世間事は、ころころと変わり、長続きしないのです。覚明は、まさに、うそ、偽りの世の中と知らされるのでした。

そんな覚明は、比叡山で親鸞聖人に出会います。
釈迦の教えに従って仏道修行に励まれる親鸞聖人の姿に強く引かれ、
「私を、弟子にしてください」
と願い出たのです。

覚明は、後に「西仏房(さいぶつぼう)」と名を改め、親鸞聖人に従って生涯を歩むことになります。

『歎異抄』の言葉

聖徳太子の、
「世間虚仮 唯仏是真」
の御心を、親鸞聖人は、『歎異抄』に次のようにおっしゃっています。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
(『歎異抄』後序)

(意訳)
火宅(※)のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。
※火宅……火のついた家のこと

義仲、最期の地へ

朝日将軍・義仲が最期の時を迎えたのは、滋賀県大津市の琵琶湖(びわこ)のほとりです。義仲が最期の場所に選んだ「粟津の松原」を訪ねてみましょう。

京都駅からJR琵琶湖線で大津方面へ向かいます。
大津駅の次が膳所(ぜぜ)駅。
ここで京阪電車に乗り換え、石山寺(いしやまでら)方面へ進むと、5つめの駅が粟津です。
駅から10分ほど歩くと琵琶湖のほとりに出ます。

「粟津の松原」は、旧東海道沿いにあったようです。今では湖岸が埋めたてられ、当時の面影は残っていません。

しかし、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が「近江八景(おうみはっけい) 粟津の晴嵐(せいらん)」と題して、この辺りの風景を描いています。とても美しい松林であったことが想像できます。

大津市は、名勝の復活を目指して、平成10年に、湖岸に松を植えました。「大津湖岸なぎさ公園」として整備されています。
琵琶湖から吹く風を感じながら、松の並木が連なる遊歩道を歩くのは、とても気持ちのいいひとときです。

歎異抄の旅⑬[滋賀編] 木曽義仲、最期の地への画像3


世の中のことは、ころころと変わり、長続きしない……。それは、昔も今も変わらないのだなと思います。だからこそ、『歎異抄』の言葉は、読む人の心を動かすのですね。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)

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