「いただきます」挨拶の意味とは?
今回のテーマは「合掌」です。
合掌とは手をあわせることで、仏教では仏様への礼儀として合掌する習慣があります。
日本でしたら、おじぎをするという習慣があるようなもので、インドにはインドの礼儀の習慣があるでしょう。
そのインドの習慣・礼儀の1つが合掌です。
日本で日ごろなじみのあることでいいますと、仏壇の前や墓の前で合掌することがあると思います。
それ以外にも食事の前や後に合掌するでしょう。
食事の前には、手を合わせて「いただきます」といいます。
食前のマナーとしてされる方もあると思いますが、そもそもなんで食前に合掌し「いただきます」と言うのでしょうか。
近年、「食育」という言葉が使われるようになりました。
食に対する考え方や価値観を育んでいくことが、後々健康面やその他の面でも大事になることから、耳にする機会も増えたかもしれません。
食事の前の挨拶も一つの食育ですが、子どもとしては親が言うから言っているのであって、一人だと言わない子が多いようです。
なぜ「いただきます」と言うのか、親も意味を知って教えてあげることが食育の一環になるのではないでしょうか。
食事のときの挨拶について、今回は仏教の視点から考えてみたいと思います。
私たちは命を頂いている
まず「いただきます」という言葉は、仏教の視点からいいますと「命を頂きます」という意味があります。
同じような動作で、キリスト教では食前に祈っていますね。
ただ、意味合いは大きく異なります。
キリスト教では、動物などの人間以外の生き物は神が人間に食べさせるために造り出したと考えられています。
ですので、食事できるのも神の恵みだということで、神に対する感謝として祈るのです。
一方仏教では、人間であれ、動物であれ、小さな虫であれ、命はみな同根と教えられています。
私たちの生命は限りがなく、いろいろな生き物に生まれては死に、生まれては死にを繰り返していると説かれているのです。
この考え方について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
そういう中で今、人間として生まれ、生きているのです。
そして生きるためには仕方のないことですが、他の生き物の命を奪っています。
どんな生き物も必死に生きていますし、人間に食べられるために生きているんだと喜んで食べられる生き物はありません。
生き物の命を奪うことを仏教では殺生(せっしょう)といい、罪深いことだと教えられます。
ですから、山などに入って厳しい修行をする人は、肉や魚などの料理を食べないという、いわゆる精進料理のみで生活します。
ですが一般の人は肉や魚を食べて生きていますし、今さらその生活をやめることもできないでしょう。
殺生せずしては生きていけないのが私たちなのです。
ですからせめて食事をいただくときには、犠牲となっていった「命」があることを思い「(命を)頂きます」といいます。
奪った命が本当に活かされる道とは?
『いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日』(原案:坂本 義喜 作:内田 美智子 絵:魚戸おさむとゆかいななかまたち)という絵本がありました。
原案の坂本さんは「食肉解体業」をされている方です。
食肉解体業の仕事を通して、食べることについて考えさせられる内容になっています。
この絵本の感想の中には、
「当たり前に食べているお肉、これも動物の大切な命なのですよね。
私たちは命をいただいて生かされている。
そのことを忘れずにいなければいけないと思いました」
とありました。
命の重みを感じさせられますね。
「食」という字は、人が良くなると書きます。
意味のある人生にしなければ、奪っていった命に対して申し訳ないことではないでしょうか。
私たちは単に、生きるために生きているわけではありません。
生きて何をなすのか、何のための人生なのか、生きる意味が曖昧なままでは、ただ殺生を重ねることになってしまいます。
人間に生まれることができて本当によかったと心から喜べる目的を果たしてこそ、犠牲になっていった命も報われるのではないでしょうか。
「ごちそうさま」は感謝の言葉
次に、食後には「ご馳走さま」と言います。
馳走とは、「走りまわって用意する」という意味です。
昔はとくに、大型スーパーなど何でもそろう店がなかったでしょうし、炊飯器もない、水道もないという生活です。
食事の準備をするとなったら、それこそさまざまなことをしなければなりませんでした。
そうやってかけずり回って準備してくれてありがとう、という感謝や労いの意味が「ご馳走さま」にはこめられています。
昔ほどではないでしょうが、今日でも毎日、食事を作るのは大変です。
まずは何を作るか献立を考えねばなりません。
毎日毎日何を作るのか考えるのは簡単なことではないでしょう。
家族の健康を考えて栄養バランスを考慮しますし、頻繁にスーパーへ行けない場合もありますから、まとめ買いをします。
そうなると今日はこれを作って、明日はこれにしてと先々を考えて買わねばならないでしょう。
食材をムダにしないような献立を考える必要もあります。
そういう苦労の末、調理をして、盛り付けて、食卓に並べて食事が用意されているのです。
それなのに、せっかく作った料理にみんながあまり手をつけなかったり、「これ好きじゃない」なんて言われると本当に悲しくなります。
食事ができるのは決して当たり前ではありません。
作ってくれた人、準備をしてくれた人のさまざまな苦労があって食事ができるのです。
少しでも感謝の気持ちをあらわして合掌し「ご馳走さま」と言うのでしょう。
まとめ
普段当たり前のようにしている合掌は、挨拶・礼儀の1つです。
今回はとくに食事のときのことを中心に考えてみました。
「いただきます」「ごちそうさま」には実は深い意味があるのです。
食前・食後に心を落ち着けて合掌し、生きることの意味や感謝、労いの気持ちに思いを巡らす、わずかな時間ともなればと思います。
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