古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する

春は新しい出会いの季節です。様々な人との出会いの中で、「あー、この人と出会って、私の人生が変わったな」という人はあるでしょうか。
今回の『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載では、そんな「出会い」が……。
木村さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅⑮[京都編] 四条大橋の出会いの画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します

(「月刊なぜ生きる」に好評連載中!)

恵信尼文書をひもとく

──木村さん、日本の「生花」のルーツになっている六角堂に、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の額や、お堂、銅像まであるのですね。六角堂と親鸞聖人には、どんな関係があるのでしょうか?

その答えは、親鸞聖人の奥様の手紙に記されています。
奥様が、娘にあてて出された直筆の手紙が、大正10年に西本願寺の宝物庫から発見されたのです。全部で10通あり、恵信尼文書(えしんにもんじょ)として国の重要文化財に指定されています。

──えー、親鸞聖人の奥様の手紙が残されているのですか。日本人の文書保管力は素晴らしいですね。
その手紙に、どのようなことが書かれてあるのですか?

はい、第3通には、「亡くなられたお父様は、このような方だったのですよ」とつづられています。
この中に、

「山を出でて、六角堂に百日こもらせたまいて、後世(ごせ)を祈らせたまいけるに」

と記されています。

──これは、どういうことでしょうか?

「山を出でて」とあるように、親鸞聖人は29歳で、比叡山(ひえいざん)を下りられ、六角堂に100日間、籠もられたのです。
その目的は、あくまでも「後世を祈る」ためでした。

──「後世を祈る」とは、何を意味しているのでしょうか?

親鸞聖人は、幼くして両親を亡くされました。
死は、情け容赦もなく、突然、襲ってきます。
親鸞聖人は、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と驚かれたのです。

死を、「旅立ち」ともいいます。
しかし、旅立つ先がハッキリしないのです。
「死んだらどうなるのか」と、えたいの知れない不安を抱かれたのでした。

──確かに、不安です。

これは、誰もが、いつか必ず直面する大問題です。
この大問題を、仏教では「生死(しょうじ)の一大事」といいます。
生死の一大事を解決し、この世から永遠の幸せになることが仏教の目的なのです。

──そうだったのですね。それで、親鸞聖人は、比叡山に入られたのですね。

そうです。
比叡山延暦寺(えんりゃくじ)は、欲、怒り、恨み、ねたみなどの煩悩を抑えて難行苦行に励むことによって、生死の一大事を解決しようとする教えです。
親鸞聖人は、この教えに従い、比叡山で20年間も、煩悩と格闘されたのです。

しかし、どれだけ真剣に修行に励んでも、「死んだらどうなるか分からぬ心」が晴れません。
精も根も尽き果てられた親鸞聖人は、ついに、
「比叡山では、生死の一大事の解決はできない」
と見極められ、下山を決意されたのでした。

そして、聖徳太子が建立された六角堂へ、100日間、参籠する誓いを立てられたのです。

歎異抄の旅⑮[京都編] 四条大橋の出会いの画像2

──どうして、六角堂へ参籠されたのでしょうか?

その目的は、恵信尼文書に、
「後世を祈らせたまいけるに」
と明示されています。

「後世」とは、「後の世」「死んだ後」のことです。
親鸞聖人は、六角堂に籠もって、
「生死の一大事を解決する道をお導きください」
と、一心に祈願を続けられたのでした。

──比叡山でも、六角堂でも、ひたすらに「生死の一大事を解決する道」を求められたのですね。
それで、六角堂で何かあったのでしょうか?

95日めの夜明けのことです。
親鸞聖人の夢の中に救世観音(ぐぜかんのん)が現れ、どんな人でも、ありのままの姿で救われる教えがあることを示されました。
しかし、この時の親鸞聖人には、どこへ行って、どなたからお聞きすればいいのか、全く分かりませんでした。

四条大橋の出会い

絶望された親鸞聖人は、まるで夢遊病者のように京都の街をさまよい歩かれるのでした。
鴨川にかかる四条大橋(しじょうおおはし)の上で、親鸞聖人がたたずんでおられると、たまたま通りかかった一人の男性が、

「おや、親鸞殿ではござらぬか」

と声をかけてきました。

歎異抄の旅⑮[京都編] 四条大橋の出会いの画像3

かつて、比叡山で一緒に修行していた友人・聖覚法印(せいかくほういん)だったのです。

聖覚法印は、次のように語ります。

「親鸞殿、私も、『死んだらどうなるか分からぬ心』を解決したいと、長い間、苦しみました。山を下りて、どこかに、救われる道がないかと、探し回りました。そして、吉水(よしみず)の法然上人(ほうねんしょうにん)にお会いすることができたのです」

「法然上人……」

「そうです。その法然上人から、教えを頂き、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)によって救われたのです」

「阿弥陀仏の本願……」

「はい。阿弥陀仏の本願によってです。阿弥陀仏は、男も女も、賢い人も、愚かな人も、必ず絶対の幸福に救い摂ると、誓っておられます。だからこそ、私のような罪深い者も、救われたのです。親鸞殿、あなたのその苦しみは、必ず解決できます。ぜひ、法然上人に、お会いしてください」

親鸞聖人は、ようやく一条の光を見つけられ、吉水の法然上人を訪ねられました。
それは、建仁(けんにん)元年(1201)、29歳の春のことでした。

法然上人にあいまいらせて

──それで、法然上人に出会われたのですね、

恵信尼文書には、次のように記されています。

「法然上人にあいまいらせて、また六角堂に百日こもらせたまいてそうらいけるように、また百か日、降るにも照るにも、いかなる大風にも、まいりてありしに」

法然上人に会われた親鸞聖人は、
「この方こそ、真実の仏教を説いてくださる先生だ」
と確信されたのです。
そして、雨の日も、猛暑の日も、どんな強い風が吹き荒れる日であっても、決して休まれず、法然上人のもとへ通われ、ご説法を聴聞されたのでした。
かくて、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって、絶対の幸福に救い摂られたのです。

その喜びを、次のように詩の形(和讃)で表現されています。

超世の悲願ききしより
(ちょうせのひがんききしより)
われらは生死の凡夫かは
(われらはしょうじのぼんぶかは)
有漏の穢身はかわらねど
(うろのえしんはかわらねど)
心は浄土に遊ぶなり
(こころはじょうどにあそぶなり)
(帖外和讃・じょうがいわさん

(意訳)
弥陀(みだ)の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩は少しも変わらないけれども、心は極楽で遊んでいるようだ。

また、「死んだらどうなるか分からぬ心」が微塵もなくなった喜びを、次のように表しておられます。

生死の苦海ほとりなし
(しょうじのくかいほとりなし)
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
(みだぐぜいのふねのみぞ)
のせてかならずわたしける
(高僧和讃・こうそうわさん

(意訳)
苦しみの波の絶えない海に、永らく、さまよいつづけてきた私たちを、阿弥陀仏の本願の大船だけが、乗せて必ず浄土まで渡してくだされるのである。

──とても大きな喜びが伝わってきて、なんだか、私までうれしくなりますね。
ところで、法然上人は、どこでお話をされていたのでしょうか?

法然上人が、阿弥陀仏の本願を説いておられた「吉水」は、京都の東山(ひがしやま)のふもとにありました。
親鸞聖人が、聖覚法印と出会われた四条大橋から歩いて15分ほどの場所です。
次回は、法然上人の吉水草庵跡を訪ねてみましょう。

歎異抄の旅⑮[京都編] 四条大橋の出会いの画像4


木村さん、ありがとうございました。比叡山、六角堂、四条大橋、吉水と、『歎異抄』ゆかりの地を、今も訪れることができる日本は、素敵な国ですね。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)