古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する
新緑がまぶしくて、心地よい季節になりました。
近頃は、なかなか自由に出歩けないので、オンラインツアーも人気なのだそうですね。
『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載では、旅の気分を味わいつつ、古典に親しんでいただけたら、うれしいです。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」に好評連載中!)
四条大橋を歩く
──京都の鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋(しじょうおおはし)には、『歎異抄』と、どんな関係があるのでしょうか。
はい、この橋は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)にとって、忘れられない場所です。
「もし今晩、死んだらどうなるのか」
この真っ暗な心の解決を目指して、親鸞聖人は、9歳で比叡山(ひえいざん)の僧侶となり、厳しい修行を続けられました。
しかし、29歳の春に、とても比叡山では解決ができないと見極められ、山を下りられたのです。
──山を下りられて、どうされたのでしょうか?
夢遊病者のように、京の街をさまよっておられた時に、四条大橋の上で、かつての友人・聖覚法印(せいかくほういん)に出会われたのです。
聖覚法印から、
「親鸞殿、あなたのその苦しみは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願によって、必ず解決できます。ぜひ、法然上人(ほうねんしょうにん)にお会いしてください」
と勧められ、吉水(よしみず)の草庵へ向かわれたのでした。
──そんな出会いがあったのですね。
はい。そこで、四条大橋をレポートしたいと思います。
現在の四条大橋は、鉄筋コンクリート製です。
橋のたもとには、河原の土手へ降りる階段が設置されています。
土手には、散歩したり、川の流れを眺めたりしている人が多くいます。
のんびりした時間を過ごすことができるスペースです。
鴨川の流れには段差があり、小さな滝のように、水の音がさわやかに響いています。
──いいですね。水の音は落ち着きますね。
その流れを、じっと見つめる足の長い鳥がいました。サギが魚を狙っているのです。
橋の真下に行くと、カモがたくさんいました。
すいすい気楽に泳いでいると思ったら、急に水中に首を入れて逆立ち!
魚をとっているのです。
──うわっ、弱肉強食の世界ですね。
のどかな河原の風景の中にも、鳥や魚たちの、生きるための闘いがあるのです。
そういう姿を見ていると、「生」と「死」を見つめ、「なぜ生きる?」と考えることができるのは人間だけなのだ、と改めて感じました。
親鸞聖人は、絶対「死にたくない」人間が「死なねばならない」矛盾に驚かれ、仏教を求め始められたのです。
──「死」と聞くと、なんだか暗くなるのですが……。
そうですね。
「仏教は、死ぬことばかり言うから嫌いだ。そんな暗い話は聞きたくない」と言う人がありますが、大きな誤解です。
この世も、未来も、本当に明るくなりたいから、死を真っ正面から見つめるのです。また、必ず解決できるのです。
──それは、すごいですね。気を取り直していきましょう。
四条大橋の下で、京都の地図を広げて、ここから法然上人の吉水草庵跡までの道順を確認していると、鴨川と並行して、「高瀬川(たかせがわ)」という小さな川が流れていることに気づいたのです。
森鴎外(もりおうがい)の小説『高瀬舟(たかせぶね)』で有名な、あの川です。
『高瀬舟』のテーマは、『歎異抄』と深い関係があります。
予定を変更して、高瀬川のほとりを散策しながら、「生と死」について考えてみたいと思います。
──なんだか、文学的な香りがしてきました。
森鷗外の『高瀬舟』
──すみません。森鷗外ってどんな方でしょうか?
森鴎外は、夏目漱石(なつめそうせき)と並んで明治時代を代表する文豪です。
小説家としては、異色な経歴の持ち主でした。東京大学医学部を卒業し、陸軍の軍医となります。22歳から4年間、ドイツへ留学した経験が、後の文学活動に大きな影響を与えています。
小説を発表しながらも、陸軍の中では出世を果たし、軍医としての最高ポスト「軍医総監」にまで上りつめました。
──執筆と軍医と両方ともに、抜群の方だったのですね。
陸軍を退官した54歳の時に発表した小説が『高瀬舟』です。とても短く、20分ほどで読める作品です。
しかし、一読後、心に何かが、ずしりと残るのです。
──それは、なぜですか?
「人間にとって、幸せとは何か」という、とても大きな問いが、提起されているからです。
森鴎外が、『高瀬舟』を発表したのは大正5年。それ以来、さまざまな議論が繰り返されてきました。100年以上たった今日でも、いまだ、解決していない難問です。
──どんな問題でしょうか。ぜひ知りたいです。
それでは、小説を要約して、問題を浮き彫りにしていきますので、皆さんも、鴎外が出題したクイズに挑戦してみてください。
文豪が問う〝なぜ生きる〟
小説『高瀬舟』は、こう始まります。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごい)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻(まわ)されることであった。
(『高瀬舟』より)
桜咲く、春の夕刻。珍しい罪人が高瀬舟に乗せられました。彼の名は、喜助(きすけ)といいます。30歳ほどの、住所不定の男です。
町奉行所の役人・羽田庄兵衛(はねだしょうべえ)は、罪人の護送役を命じられて一緒に舟に乗りました。庄兵衛は、喜助を見て「不思議な男だ」と思わずにおれませんでした。
これまで、島へ流刑になる罪人は、舟の中で夜通し泣いたり、悔やんだりしている者ばかりでした。ところが、喜助は、いかにも楽しそうな顔をしているのです。今にも、口笛を吹いて、鼻歌を歌い出しそうにさえ見えます。
庄兵衛は、罪人と親しく会話をしてはいけない立場でしたが、つい、「喜助、おまえは、何を考えているのか」と尋ねてしまったのです。
喜助は、とがめられたのかと思って、恐る恐る「私は今、懐に二百文の銭を持っているからです」と答えました。
このお金は、島での生活資金として、奉行所が罪人に与えたものでした。
当時は、二百文で米を三升(約5キロ)買うことができたようです。単純な比較はできませんが、今なら、米5キロは、2000円前後で買えることを思うと、大金ではありません。それなのに、なぜ、うれしいのか……。
喜助は、こう説明します。
「これまで、私には居場所もなく、決まった仕事もありませんでした。生きるために、どこかに仕事がないかと、探し回っていました。お金になることならば、何でも、骨身惜しまず働いたのです。それでも、受け取った給料は、いつも右から左へ消えていきました。借金を返すためです。そして再び、食べるために借金をし、借金を返すために働いてきました。こんな毎日だったので、現金が手元に残ることはなかったのです。ところが今、私の懐には、二百文もあります。私にとって初めての蓄えなのです。こんなうれしいことはありません」
喜助の話を聞いて、役人の庄兵衛は、「自分と喜助の身の上に、どれだけの違いがあるだろうか。金額の桁が違うだけで、同じではないか」と考え込んでしまいました。
喜助は、とても不幸で、かわいそうな生活をしてきた男です。
それに比べれば、庄兵衛には妻と四人の子供、老母、合わせて七人で暮らす家があります。
町奉行所の役人としての定職があり、決まった額の給料をもらえます。妻の実家は裕福な商人なので、たまには、経済的な援助を受けることもあります。
それでも、家族全員の暮らしを支えるのが厳しくて、自分の給料は、すべて右から左へと消えていくのです。
庄兵衛は、喜助よりも格段に恵まれているはずなのに、これまで「満足」を感じたことがありませんでした。
いや、満足どころか、
「もし、突然、仕事を解雇されたら、どうしよう」
「もし、大きな病気になったら、家族を養えなくなる……」
という不安と恐れが、常に心の奥底に潜んでいることに、今さらながら、気づいたのです。
庄兵衛は只(だだ)漠然と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄(たくわえ)がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。
(『高瀬舟』より)
庄兵衛は、これまで、「人の一生」を落ち着いて考えてみたことがなかったのです。
しかし今、罪人の喜助と自分を比べてみて、人間は、何を、どれだけ求めたら、満足できるのだろうか、と大きな疑問にぶつかったのでした。
鴎外は、自ら『高瀬舟』を解説して、次のように分析しています。
人の欲には限(かぎり)がないから、銭を持って見ると、いくらあればよいという限界は見出されないのである。
(『高瀬舟縁起(たかせぶねえんぎ)』より)
では、クイズです。
限りない「欲」を持った人間は、どうすれば幸せになれるのでしょうか?
木村耕一さん、ありがとうございました。喜助と庄兵衛の会話が、とても身近で、考えさせられました。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)
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