古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する
みなさんは、どんな本を読んでおられますか?
私が今、読んでいるのは、司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんの『竜馬(りょうま)がゆく』です。
『竜馬がゆく』を読むのは3回めなのですが、幕末の混沌とした世の中は、今の複雑な社会と通じるところがあり、面白いですね。
今回の『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載は、「司馬遼太郎と『歎異抄』」。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」に好評連載中!)
京都へ
京都には、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と『歎異抄(たんにしょう)』に関係する場所が、多くあります。
今回は、東山(ひがしやま)のふもとにある円山公園(まるやまこうえん)へ向かいましょう。
──円山公園、楽しみです。
新幹線で京都駅に到着。
駅前から地下鉄烏丸線(からすません)に乗り換え、二つめの駅・四条(しじょう)で降ります。乗車時間は、わずか4分でした。
──あっという間でしたね。
地上へ出て、にぎやかな四条通を東山方面へ歩きます。この辺りが、京都で最大の繁華街・四条河原町(しじょうかわらまち)です。大通りの両側には、大丸、高島屋などのデパートや土産物店、飲食店などが立ち並んでいます。
鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋(しじょうおおはし)を渡ると祇園(ぎおん)。真っ正面にそびえる東山のふもとが円山公園です。
円山公園の近くに法然上人の吉水草庵
──円山公園に着きました。
公園へ入ると、
「名勝 圓山公園(まるやまこうえん)」
と刻んだ大きな石柱が立っていました。
──ここは桜の名所ですよね。
はい、そうです。
「祇園しだれ桜」と呼ばれる大木があり、ライトアップした夜桜が有名です。
法然上人(ほうねんしょうにん)は、約800年前に、この近くに寺を建て、仏教を説いておられました。
──この近くだったのですか。たしか、「吉水の法然上人」と聞いたことがありますが。
ここは、清らかな水がわき出ていたといいます。そのため、法然上人の寺は「吉水草庵(よしみずそうあん)」、または「吉水の禅房(ぜんぼう)」と呼ばれていたんですね。
──繁華街から、ちょっと離れただけで、こんなに静かな所があるのですね。
円山公園には、河原町の繁華街から歩いて十数分で着きます。
おそらく吉水草庵は、静かな山のふもとにありながら、都の中心部からも近いので、一般の人々が仏教を聴聞するのに集まりやすい場所だったのでしょう。たちまち参詣者があふれたと伝えられています。
『歎異抄』を愛読した司馬遼太郎
公園の中央には、ひょうたんの形をした大きな池があります。
背後にそびえる緑の山と青い空が水面に映り、とても美しく、心が癒やされます。
池の中央にかかる石橋を渡って公園の奥へ進むと、右手に大きな銅像がありました。
──あれは、どなたの銅像でしょうか?
日本刀を手にした坂本竜馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の像です。
この二人の名前が出てくると、すぐ思い浮かぶのが歴史小説家・司馬遼太郎の『竜馬がゆく』です。2,000万部を突破する大ベストセラーとなっています。
──はい。私も愛読しています。そういえば、今日のテーマは、「司馬遼太郎と『歎異抄』」でした。司馬遼太郎さんと、どんな関係があるのでしょうか?
実は、司馬遼太郎も、『歎異抄』に魅了された一人でした。
彼は、どんな時に『歎異抄』を読み、何を感じていたのでしょうか。
──それは、ぜひ、知りたいです。
その答えは、朝日新聞社が発刊した『司馬遼太郎全講演』の中にありました。昭和39年7月、大阪市での講演で、次のように語っています。
仏法(ぶっぽう)とは仏の教えのことですが、いまおまえさんはどこにいると教えてくれる一枚の地図だと思います。
地図がなかったら、寂しいですよ。
私には悪い癖がありまして、どこに行くにも地図を持っていきます。
知らない土地に行って、土地の人に地図をのぞき込んでもらい、いろいろ教えてもらって安心します。ああ、あれが畝傍山(うねびやま)かと、安心する。
われわれは自分の位置関係をはっきり把握しながら歩くものですね。人生にも、一枚の地図が必要です。
仏法という地図は、世界でもいちばん精巧で、正しい地図だと私は聞いています。もし、仏法という地図が私に与えられるならば、仏法に参入したいとも思います。
しかし、どうも私は迷いが多いのですね。地図一枚を信じることがなかなかできません。
信じることは難しいですね。私などはショックを受けなければだめです。私だって信じたことがあるのですよ。それは兵隊に行くときのことでした。
急に兵隊に行くことが決まり、ずいぶん驚きました。いままでは人が行くものとばかり思っていたからで、お葬式のようなものですね。
お葬式は人のものだと思っていますから、お葬式に行ってあの人に会ったらどうしようとか、いろいろ考えます。人が死ぬことは考えても、自分が死ぬことはちっとも考えないから、ニコニコ暮らせるわけです。生死は人生の地図の重要なものですが、なかなかそこに人間は参加できません。やはり人間はのんべんだらりと暮らしている間はだめで、ショックが必要になります。
私は兵隊に行くときにショックを受けました。
まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、死ぬことがよくわからなかった。自分は死にたくないのです。
なぜ、人生には、不安がなくならないのでしょうか。
司馬遼太郎は、うまく表現していますね。
私たちが「生きている」ことを、「地図を持たずに見知らぬ土地へ来ている」ことに例えています。
初めて訪れた土地で、今、自分がどこにいるか分からなくなったら、とても不安になります。
──そうですね。私は方向音痴で、すぐに迷子になります。自分がどこにいるのか分からない不安は、とてもよく分かります。生きることの不安も、同じような不安でしょうか?
これは私たちが、「こんな毎日の繰り返しに、どんな意味があるのだろう」「何をしたら満足な人生を送れるのだろう」という漠然とした不安を感じながら生きているのと同じではないでしょうか。
私たちは、「人生」という旅の終着点は「死」であることを知っていても、そこがどんな所なのか、それまでに何をしておけばいいのか分かりません。
──確かに、そうですね。
しかも、終着点に着くまで、まだ時間があるのか、もう間近に迫っているのか、まったく予想できないのです。
旅人にとって、これほど大きな不安はないでしょう。だから私たちは、好きなことに熱中したり、楽しいことを探したりして、心の奥底に横たわる不安を、忘れよう、忘れようと努力しているのです。
──はい。この不安を、見ないようにしているなと知らされます。
しかし、ある日突然、「死」が目の前に現れると、慌てざるをえません。
──おっしゃるとおりです。先日、いつも通る道を何気なく歩いていたら、目の前で交通事故が起きました。慌てました。もう少し早く歩いていたら、自分が交通事故に遭っていたと思います。しかも死んでしまったら、と思うとゾッとします。
司馬遼太郎の場合は、戦争への学徒出陣でした。昭和18年、20歳の時に、大日本帝国陸軍の戦車隊への配属を命じられたのです。当時を振り返り、司馬遼太郎は語ります。
死んだらどうなるかが、わかりませんでした。
人に聞いてもよくわかりません。
仕方がないので本屋に行きまして、親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。
人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。
『歎異抄』にはそれがありませんでした。本当のところ、『歎異抄』は理屈ではわからない本です。(中略)
どうも奥に真実があるようでした。
ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、これでいこうと思ったのです。兵隊となってからは肌身離さず持っていて、暇さえあれば読んでいました。私は死亡率が高い戦車隊に取られましたから、どうせ死ぬだろうと思っていました。
戦争に出陣する若者の中には、『歎異抄』を持っていった人が多かったといいます。
──なぜ、『歎異抄』を選んだのでしょうか?
それは、司馬遼太郎が自らの体験を語っているように、
「死にたくない」
「死んだらどうなるのか」
という強いショックを受けた時に、心に強く響く本だったからでしょう。
『歎異抄』には、仏教の真髄が語られていますので、何の予備知識もなく、一度や二度読んで分かるものではありません。
──そうですね。文章は美しいのですが、言葉が難しくて。『歎異抄』は、解説書がないと分からないと思いました。
それでも、司馬遼太郎が、
「読んでみると真実のにおいがする」
と言ったのは、親鸞聖人の言葉の重みを感じ取ったからだと思います。
──「読んでみると真実のにおいがする」の言葉は、とても惹きつけられます。どうしてそう感じられたのでしょうか?
親鸞聖人は、「死んだらどうなるのか」という、生死(しょうじ)の一大事の解決に向かって、20年間も比叡山(ひえいざん)で厳しい修行に打ち込まれました。それでも救われない自己の姿に驚かれ、山を下りて、法然上人からハッキリ解決の道を聞かれたのです。
そのような求道を背景とした親鸞聖人の言葉からは、「空気が漏れているような」とか、「何かうそだな」という感じを受けることはありません。
──『歎異抄』の言葉には、とても深い背景があるのですね。
そこが『歎異抄』の不思議な魅力だと思います。
木村耕一さん、ありがとうございました。司馬遼太郎さんの言葉を聞いて『歎異抄』の不思議な魅力に、気づかされました。次回もお楽しみに。
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