古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する

今回の『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載は、前回に引き続き、京都の円山公園(まるやまこうえん)を散策します。
円山公園には、司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんの代表作『竜馬がゆく』に描かれた、坂本竜馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の銅像がありました。
司馬遼太郎と『歎異抄』その2。木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅⑱[京都編]司馬遼太郎と『歎異抄』その2の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します

(「月刊なぜ生きる」に好評連載中!)

司馬遼太郎が描いた『竜馬がゆく』の生き方

──なぜ、円山公園に坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像があるのでしょうか。

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それは、司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』に描かれた幕末動乱の舞台が、この近くに多くあるからです。
司馬遼太郎が、小説『竜馬がゆく』を発表してから、竜馬のファンが爆発的に増えていきました。

──そうですか。司馬遼太郎さんの影響力は大きいですね。竜馬の、どんな姿が、多くの人を引きつけたのでしょうか。

竜馬は、江戸時代の末期に、土佐藩(とさはん。現在の高知県)の下級武士の家に生まれました。少年時代には、塾の勉強についていけず、友達から「泣き虫」とバカにされていたといいます。

──「泣き虫」だったんですね。そこから、どう立ち上がったのでしょうか?

竜馬は海が好きでした。
浜辺に立ち、打ち寄せる白い波を見つめていると、心が癒やされてきます。
青く広がる海と比べたら、人間の社会なんて、狭くて、小さなものに思えてきます。バカにされ、心を傷つけられても、「それが、どうした」と、はね返す元気がわいてきます。

──高知県の桂浜(かつらはま)。あの海を竜馬も見ていたのですね。

竜馬は、こんな歌を詠んでいます。

世の中の 人は何とも 云わばいえ
 わがなすことは われのみぞ知る

──どんな意味でしょうか?

勉強の成績が悪い者、古い慣習を守れない者は、ダメ人間なのか?
そのような枠をはめようとする考えに、強烈に反発しています。
人生は一度きり。しかも短いのです。他人の目を気にして生きたくはない。自分は、自分で考えて、自分らしく生きるぞと、志を述べているのです。

──かっこいいですね。

また彼は、
「世に生を得るは事を成すにあり」
と言っています。
「人間は、大事な目的を果たすために生まれてきたのだ。その目的に向かって突き進んでこそ、人生は輝く」という信念で生きていました。
このような、前向きな姿に感動し、「自分もそうありたい」と願う読者が多いのではないでしょうか。

──はい、前向きな姿、私もそうありたいです。

竜馬の生きた時代には、政権を握る徳川幕府と、幕府を倒そうとする革命勢力の間で、激しい争いが起きました。
地位も学問もない竜馬が、次第に薩摩藩(さつまはん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)、長州藩(ちょうしゅうはん)の桂小五郎(かつらこごろう)などから信頼され、革命勢力のリーダーになっていく姿が、『竜馬がゆく』に躍動的に描かれています。

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慶応3年(1867)10月。
ついに時の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、竜馬たちの要求を受け入れ、幕府を閉じる決断をし、政権を返上しました。
目標は、ひとまず達成できたのです。

しかし、その1カ月後、坂本竜馬は、京都で反対派の刺客に襲われ、暗殺されたのです。33歳の若さでした。竜馬の盟友・中岡慎太郎も、ともに惨殺されました。2人が新政府の船出を見ることもなく殺されたことを悼んで、円山公園に銅像が建てられたのです。

──それは悲しい出来事でした。それで銅像が建てられたと分かりました。では、明治の新政府は、竜馬が理想とした平和な日本を築くことができたのでしょうか?

それが残念なことに、明治元年から1年半にわたって、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争(ぼしんせんそう)が繰り広げられ、多くの命が奪われました。

さらに新政府は、西洋の諸国に追いつくことを目指し、経済の発展と軍事力の強化に力を入れます。それは世界を相手にした戦争の始まりでもありました。
日清戦争、日露戦争へ突入。
さらに第二次世界大戦へ。

──こんなに戦争ばかりでは、何のために竜馬が頑張ったのか、むなしくなります。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』に、
「昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断(ろうだん)し、ついには大東亜戦争をひきおこした」
と書いています。

戦争によって国土は焼け野原となり、どれだけ多くの人々が、言葉に表せないほどの苦しみを味わったかしれません。

揺れる「善悪」の判断基準

『歎異抄』に、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の衝撃的な言葉があります。

「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」

──すごくリズム感のある文章ですが、どんな意味でしょうか?

これは、「親鸞は、何が善やら悪やら知らないし、まったく分からない」という意味です。

──え? 私たちでさえ、「自分の判断は正しい」「善悪ぐらいは心得ている」と思っています。それなのに、なぜ、親鸞聖人のような方が、こんな発言をされるのでしょうか。とても疑問に思います。

しかし、幕末から昭和までの戦争の歴史を見るだけでも、人間の判断は、何が正しくて、何が間違いなのか、ハッキリと言い切れないことが分かります。
時代や環境によって大きく変わる「善悪」の判断基準に、人々は翻弄され苦しんできました。

──はい、確かにそのとおりです。

親鸞聖人の言葉には、表面的にとらえただけでは分からない、もっともっと深い意味が込められているはずです。
司馬遼太郎は、「『歎異抄』を読むと真実のにおいがする」と言っていますが、このような衝撃的な言葉が、たくさんあるからだと思います。

無人島に1冊持っていくなら『歎異抄』

司馬遼太郎が、
「無人島に1冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」
と語ったことは、よく知られています。平成8年に発売された『週刊朝日』に掲載されています。

「無人島」という設定が、とてもインパクトがありますね。

──はい、「無人島」って強烈です。

無人島だから、周りの人に気を遣う必要がありません。楽です。
お金を稼ぐために、あくせく働く必要もありません。
地位、名誉も意味がなくなります。誰も褒めてくれないのは、ちょっと寂しいかもしれません。しかし、悪口を言われることはないので、心が傷つく心配はありません。
無人島では、仕事のことも、家族のことも、世の中のことも、すべて忘れて、自分のことだけ考えていればいいのです。

──あー、いいですね。今、抱えているストレスよ、すべて、さようなら〜。

さて、そうなると……。
一人の人間として、素っ裸になった時に、気になるのは何でしょうか。

無人島にいても、どこにいても、人間は生まれてきた以上は、いつか必ず死ぬのです。
「死とは何か」
「死んだらどうなるのか」
この、人間にとっての究極の問いが、頭をよぎってきます。

──確かに、これから先の、私の未来が気になります。

司馬遼太郎は、20歳の時に学徒出陣を命じられて、「死」と向き合った経験から、人間にとって、最後に必要な本は『歎異抄』だと確信していたのだと思います。

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写真の川の左側(東)に円山公園、吉水草庵跡(よしみずそうあんあと)、青蓮院(しょうれんいん)が、川の右側(西)には、土佐藩邸跡、長州屋敷跡、池田屋騒動跡、坂本竜馬の海援隊京都本部跡などがあります。

──ここは、幾度も、時代が変わる舞台になってきたのですね。


木村耕一さん、ありがとうございました。司馬遼太郎さんが『歎異抄』を愛読された理由が、分かった感じがします。次回もお楽しみに。

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