古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、「信長、秀吉と『歎異抄』2」です。
2万5千人の大軍を率いた今川義元に、3千余の織田信長が奇襲した「桶狭間(おけはざま)の戦い」の旧跡を訪ねます。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
桶狭間の戦いへ出陣する時に
「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
織田信長が、桶狭間の戦いに出陣する時、このように謡いながら舞う姿を、テレビドラマや映画で見たことがありませんか。
──はい、あります。織田信長が出陣する前のルーティンのように思いましたが……。
信長が謡った言葉の意味は分からなくても、なぜか、「人間の一生とは儚(はかな)いものだな……」と胸に迫るものを感じます。
中には、「『人間五十年』とは、当時の平均寿命を表している」と言う人がありますが、そういう意味ではありません。
──え、そうだったのですか。てっきり、当時の平均寿命だと思っていました。
また、信長の言葉だと思っている人もありますが、それも間違いです。
──ありゃりゃ。そこも間違えていました。信長の言葉ではないのですね。
実は、「人間五十年……」の一節は、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)の言葉なのです。しかも、『歎異抄』とも深い関係があります。
今回は、桶狭間の戦いの旧跡を訪ねて、愛知県名古屋市へ向かいましょう。
※名古屋市に隣接する豊明市にも「桶狭間古戦場伝説地」があります
──よろしくお願いします!
織田信長と今川義元の戦い
──日本史の教科書で覚えた「桶狭間」とは、どんなところなのでしょうか。
何万人もの兵士が激突した戦場だから、広い野原か、山すそではなかろうか……。
有名な場所を初めて訪ねる時は、わくわくするものですね。
──はい!
JR名古屋駅から東海道線の普通電車で南大高(みなみおおだか)駅へ向かいました。20分もかかりません。
さらにそこから車で10分ほど行くと、名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」に着きました。意外にも、周りは野原ではなく、住宅街。近くにはホームセンターや銀行があります。
──へえ。旧跡というよりも、街中の公園みたいですね。
公園の入り口には、風格のある大きな石に「桶狭間古戦場公園」と刻まれていました。
──おお! 歴史を感じてきました。
中に入ると、織田信長と今川義元の銅像が設置されています。この二人が、桶狭間の戦いの中心人物なのです。
銅像の近くには、次のような案内板が立っていました。
永禄3年(1560)5月19日、織田信長27歳のとき、わずか3千余の手勢を率いて折からの風雨に乗じ、2万5千余の今川勢の本陣を急襲し、義元を倒した。
信長が天下統一の第一歩を踏み出した、有名な桶狭間の戦いの主戦場はこの附近一帯である。
名古屋市教育委員会
この時織田信長は、尾張(おわり・現在の愛知県西部)の大名でした。しかし、まだ勢力は弱く、約3千の兵しか持っていなかったといわれています。
一方、今川義元は、駿河(するが・現在の静岡県中部)、遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)、三河(みかわ・現在の愛知県東部)を領する大名であり、強大な軍事力を持っていました。この時期、最大級の大名の一人だったといわれています。
その義元が、信長を滅ぼして、一気に尾張を手中に収めようと計画したのです。
今川軍の実数は約2万5千でしたが、「4万の大軍」と称し、尾張へ向かって進撃を開始しました。
迎え撃つ織田信長は、人生最大の危機に直面していました。
どのように戦っても、10倍近い兵力を持つ今川軍に踏みつぶされるのは、誰の目にも明らかでした。
──力の差は歴然としていますね。その出陣の時に、あの舞をしたのですね。
なぜ、圧倒的に優勢な今川義元が敗れたのか
信長は、今川軍に正面から挑んでも勝ち目がありません。勝利するには敵の大将・義元を奇襲して倒すしかないのです。
──確かにそのとおりですね。
そのためには、義元が、どのルートを通るのか、そして、どこに陣地を築くのか、機密情報を探る必要があります。
諜報活動が活発に行われました。
──必死さが伝わってきます。
その結果、おけはざま山の中腹に、義元の本陣が置かれることを、信長はつかんだのです。
おけはざま山へ、ひそかに近づく信長の軍勢。義元一人に狙いを定め、突撃します。
予想外の出来事に、今川軍は大混乱に陥りました。
義元は、追い詰められて、山のふもと・田楽坪(でんがくつぼ)へ後退。そこへ織田方の兵が斬り込み、ついに義元の命を奪ったのでした。
義元が戦死したと伝えられる場所に造られたのが、現在の桶狭間古戦場公園なのです。
──ここから、信長の快進撃が始まったのですね。
公園から、今川義元の本陣跡へ向かいました。
数百メートルの距離です。
「おけはざま山」といっても、高い山ではありません。住宅が、ぎっしり立ち並ぶ高台です。
「えっ、こんなところに!」と、思わず声が出そうな住宅街の坂道に、
「おけはざま山 今川義元本陣跡」
と刻んだ石碑が、静かに建っていました。
桶狭間の戦いは、信長にとっては「奇跡の逆転劇」といわれています。
しかし、義元の身になれば、圧倒的に優勢な自分が敗れ、この地で亡くなるとは、夢にも思っていなかったでしょう。「絶対に勝利する」と信じて疑っていなかったはずです。
──はい。こんなに力の差が歴然としていたのですから……。
しかし、信じられないような、想定外のことが起こるのが、世の中なのです。
これを『歎異抄』には、次のように教えられています。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。 (『歎異抄』後序)
(意訳)
火宅(*)のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。
*火宅……火のついた家のこと
※意訳は『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)より
木村耕一さん、ありがとうございました。想定外のことが起こるのが世の中なんだよ、と古典の『歎異抄』に記されていたのですね。
次回は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」の歌の背景や意訳をお聞きしたいと思います。お楽しみに。
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