今から162年前の1月13日。江戸幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が、アメリカへ向けて、品川沖を出航しました。当時の船で、太平洋を横断する苦労は、とても計り知れません。
この船に、勝海舟やジョン万次郎(まんじろう)が乗船していました。
ジョン万次郎といえば、アメリカと日本で活躍した国際人。万次郎には、母親思いのエピソードがあるそうです。
木村耕一さんにお聞きしました。
カツオ漁船で沖へ
──ジョン万次郎とは、どんな人でしょうか?
万次郎は、江戸時代の終わり、土佐(現在の高知県)の貧しい漁村に生まれました。
父親は、9歳の時に亡くなり、生活はますます苦しくなります。
母は、4人の子供を育てるのに精一杯でした。万次郎も漁に出て働くようになっていました。
──お母さんとともに、万次郎も一家を支えていたのですね。そんな万次郎がどうしてアメリカに行くのでしょうか。
14歳の時でした。5人乗りのカツオ漁船で沖へ出て2日後、突然、激しい嵐に襲われます。船は木の葉のように大波にもてあそばれ、太平洋へと流されてしまったのです。
──わぁ、大変です。
漂流してから7日め、溶岩に覆われた無人島を発見しました。5人は飢えをしのいで、ひたすら耐えました。
4カ月後、アメリカの捕鯨船に救助されたのです。
──よかった。
ホイットフィールド船長との出会い
万次郎は、船の仕事に積極的に参加し、技術も、言葉も、グングン吸収しました。
その骨身惜しまぬ熱心さに、ホイットフィールド船長の信頼を得ていきます。
船員たちからも、親しみを込めて「ジョン・マン」と呼ばれるようになりました。
──万次郎は、真面目な青年だったのですね。それから、どうなったのでしょうか。
5カ月後、食糧の補給にハワイへ寄港。救助された5人は、ここで船から降りました。
しかし、万次郎だけは、再び乗船しアメリカ本土へ行くことになったのです。
彼を見込んだ船長の願いからでした。
──すごいですね。
万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘブンの、船長の自宅で、ともに生活することになりました。
船長は「日本人だ。私の息子だ」と言って、町の人々に大声で紹介してくれます。
また、万次郎を学校に通わせました。英語、文学、歴史、数学、測量術、航海術などを学び、優秀な成績で卒業します。
母に会いたい
──とても順調なアメリカでの生活ですね。そのままアメリカで暮らすのでしょうか。
いいえ、万次郎は、母に会いたかったのです。一人になった時には、漂流した時に着ていた着物を取り出して母をしのび、涙に暮れることが多くありました。
──そうですよね。万次郎は望んでアメリカに来たのではなく、突然、嵐に襲われてしまったのですから。
はい。航海術を学べば日本へ帰ることができる、と思うと、人一倍、勉学に力が入りました。
しかし、当時の日本には、海外との往来を禁止する「鎖国令(さこくれい)」が出ています。
外国に住んだ日本人が帰国すれば「死罪」とされていたので簡単には帰れません。
それを思うと、一層、悲しさが増すのです。
──それは、大変な世の中です。
こんなエピソードも残っていますよ。
ある時、友人が、
「君、日本の家へ帰って、お母さんに会いたくないかい?」
と尋ねました。
その時の万次郎の様子を、友は、こう書き残しています。
「〝ノー(帰りたくない)〟と言ったかと思うと、万次郎の目に涙がどっとあふれた。〝私の国の人は、大変悪い人たちだ。私が帰れば殺されるだけだ〟と泣き声で語った。私はこんな質問をしたことを悔やんだ」
成田和雄『ジョン万次郎』
やがて彼は、努力を認められ、捕鯨船の一等航海士、副船長へと、異例なスピード昇進を成し遂げました。
万次郎は、いよいよ帰国計画を立て、着々と準備を進めていきます。
どうして帰らねばならないのか
──万次郎は、フェアヘブンの町の人気者だったのですよね。
はい。ホイットフィールド船長や友人たちは、彼の帰国を惜しみました。
「アメリカで、きちんとした教育を受け、一等航海士にもなった。仕事は探せばある。何不自由のない生活をしているじゃないか。どうして、帰らねばならないのか」
引き留める船長に、彼は、こう語りました。
「わたくしの母は私をもう死んだものと思っていることでしょう。私は私が猶(なお)この世に生きていてどんなにか母を愛しているだろうかということを知らしめるため帰国せねばなりません」
TO生「万次郎漂流記補遺」(2)
母との再会
──万次郎は、ようやく日本に帰るのですね。
はい、危険を冒して琉球に上陸した万次郎たちは、処刑を免れました。
鎖国政策をとっていた日本も、世界の動きを無視できなくなっていたのです。
──歴史の流れが、彼らを救ったのですね。
幕府も、大名も、万次郎から海外の情報を得ようとしました。
そのため、琉球(現在の沖縄県)、薩摩、長崎、土佐で1年半も拘束され、取り調べが続きました。
──うわ、そんなに長い間。日本にいるのに、なかなか帰れないのですね。
ようやく母が待つ自宅へ帰れたのは、万次郎25歳、漂流してから12年めのことでした。
一回り体が小さくなった母親は、感激にむせんで、目に手ぬぐいを押し当てたままでした。
万次郎も、
「ただいま帰りました。お達者で何よりです」
というのが精一杯でした。
──言葉にならないですね。
8カ月後、日本の歴史を大きく転換させる事件が起きました。
黒船来航です。アメリカは日本に開国を迫り、ペリー率いる4隻の軍艦を派遣しました。
──この大騒動は、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』で読んだことがあります。
慌てた幕府は、人材を求めました。英語はもとより、数学、航海術に秀で、アメリカ事情に詳しい万次郎を江戸へ呼び、直ちに幕府の役人として登用しました。
──本来ならば、国禁を犯し、処刑されるはずの身ですよね。
はい。それが今や、日本の将来を担う存在になったのです。
母の姿を写すためのカメラ
後に、万次郎は咸臨丸に乗船してアメリカへ行きました。
──今回、冒頭にお話しした、1月13日に出航した咸臨丸ですね。
はい。万次郎は、勝海舟に代わって事実上の艦長を務め、無事に、航海を成功させています。
この時、万次郎に接した人が、ハワイの新聞に次のような手記を寄せていました。
「キャプテン万次郎はまた、今度日本に帰るのに際してたくさんの珍器や美術品を買い求めたが、これらの品物の中で最も感動せられたのはカメラである。
このカメラは彼の母の姿を写そうという目的で買い入れたもので、母を写し終わったならば、もはやこの機械は無用のものであると語っている。ああ、母に対する子としての最もうるわしい愛情!」
中浜博『私のジョン万次郎』
(新装版『親のこころ』木村耕一編著より)
親への感謝の思い
木村耕一さん、ありがとうございました。
「母を写す目的を終えたカメラは、もういらない」って。
母への愛情がはっきり伝わってきて、感動しました。
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