古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、「信長、秀吉と『歎異抄』4」です。
スポーツの試合や、受験など、重大な局面の時に、「今が天王山(てんのうざん)」といわれますが、なぜ「天王山」といわれるのでしょうか?
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
天王山の「秀吉の道」が語るもの
──木村さん、天王山は、どうして有名になったのでしょうか? また、どこにあるのですか?
はい、疑問に思いますよね。
歴史小説家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)に尋ねてみましょう。『竜馬(りょうま)がゆく』に、こう書いています。
天王山は、京と大坂をむすぶ淀川(よどがわ)ぞいにうずくまっている。
標高270メートルにすぎぬ小山だが、歴史的にこれほど高名な山もない。遠く天正十年のむかし、明智光秀と羽柴秀吉とがこの戦術的な高地をうばいあってついに秀吉がおさえ、山城山崎合戦(やましろやまざきかっせん)を勝利にみちびいたことで、名がある。
勝負のやまばのことを、「いまが天王山」というのはここからうまれた。
──へえ、本能寺の変で信長が倒れた後、明智光秀と豊臣秀吉とが戦った場所だったのですね。
でも、これって『歎異抄』と、どう関係があるのでしょうか?
そこです。秀吉の最大の功績は、
「『歎異抄』の教えは、本当だった!」と後世に伝えたこと──、
と言ったら、言い過ぎでしょうか……。
──え! それはどうしてですか?
なぜなら、秀吉は、『歎異抄』の有名な一節、
「万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなし」
を身をもって体験した男だからです。
そして、まるで『歎異抄』の言葉を解釈するように、
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにわのことも 夢のまた夢」
と、辞世の句を詠んだのでした。
──この辞世の句は、ドラマでも演じられていて、有名ですよね。
この句には、どんな意味があるのでしょうか。
秀吉が天下統一へ突き進むきっかけとなった、山崎の合戦の舞台、天王山を訪ねて考えてみましょう。
──よろしくお願いします!
では、JR京都駅から、天王山へ向かいましょう。
姫路(ひめじ)行きの普通列車に乗り、約15分で山崎駅に到着しました。
この近くで、秀吉と光秀が「天下分け目」の決戦をしたと思うと、ホームに降り立っただけで、ワクワクしてきました。
──はい。歴史のロマンを感じますね。
駅から出て踏切を渡ると「天王山登り口」を示す石碑がありました。
ここから山頂までは、片道約1時間のハイキングコースになっています。
地元の大山崎町(おおやまざきちょう)は、このハイキングコースを「秀吉の道」と名づけました。
それだけでなく、頂上までの間に、6枚の陶板絵図(陶磁器製の薄い板に描いた絵)を設置し、秀吉が天下人になるまでの経緯を、大きな絵と、詳しい解説で学べるようにしたのです。
(原画となった屏風絵は、日本画家・岩井弘。解説は、小説家・堺屋太一)
──絵図があると、分かりやすいですね。
では、頂上まで歩いてみましょう。
本能寺の変
いきなり、急な坂道でした。先が思いやられます。
アサヒビール大山崎山荘美術館の近くに、1つめの絵図がありました。人の背丈以上もあるコンクリートの土台に、まるで壁画のように設置されていました。
タイトルは「本能寺の変」。
天正10年(1582)6月2日。
織田信長は京都の本能寺で、家臣の明智光秀に襲撃され、殺害されました。
史上有名な「本能寺の変」です。
──映画やドラマでもよく演じられる「本能寺の変」ですね。
当時、信長は、有能な武将を各方面へ派遣し、敵対勢力と戦わせ、天下統一を急いでいました。そして、間もなく念願が成就しようとしていたのです。その自信からか、わずかな供だけを連れて京都に入り、本能寺に宿泊したのでした。
そこへ、まさか自分の家臣が、多くの軍勢を従えて襲ってくるとは、夢にも思っていなかったでしょう。
独裁者・信長、49歳の、あっけない最期でした。
──何が起きるか、分からない世の中ですね。
秀吉の中国大返し
さらに坂道を登っていくと、野鳥の鳴き声が、心地よく響いてきました。
それだけでなく、
「注意! サル目撃情報あります」
「クマ出没注意」
「山側斜面! 落石注意」
の立て札が、次々に目に入ってきました。
──ちょっと心細くなってきますね。
はい、しかも、急な坂道。硬い岩石が突き出てデコボコになっている階段……。
これはもう「ハイキング」ではなく「登山」です。
普通の身なりで登ろうとしていたのが甘かった……。
──天王山は、甘くないですね。しっかり準備して登りたいと思います!
疲れた頃に、休憩所の広場が見えてきました。
そこに、2つめの絵図がありました。
タイトルは「秀吉の中国大返し」。
秀吉は貧しい農家に生まれた男です。信長に見いだされてから、努力に努力を重ねて出世していきました。
──よくドラマでは、信長に「サル、サル」と言われていましたね。秀吉の努力が、信長に認められていくのですね。
本能寺の変が起きた時は、強敵・毛利家と戦う中国攻めの総大将に任命されるまでになっていたのです。
都から遠く離れた備中(びっちゅう・現在の岡山県西部)で戦っている秀吉は、主君・信長の天下統一が、もうすぐ完成すると固く信じていました。
ところが、6月2日に、信長は、明智光秀に殺されます。
翌3日の夜、事件の情報を入手した秀吉は、「まさか……」と大泣きします。
しかし、次の瞬間には、都へ戻って明智光秀を討つと決断。毛利方と和睦交渉に入りました。
──秀吉の決断は、早いですね。
6月6日、備中を出発。
軍勢を引き連れて中国街道を駆け抜け、2日後には約70キロ東の姫路城に着きました。
これが、世にいう「秀吉の中国大返し」です。
木村耕一さん、ありがとうございました。信長が天下統一目前に、明智光秀に倒されて、秀吉が動き出す、まさに激動の世であったことが知らされます。
次回は、いよいよ天王山の頂上を目指します。そして、秀吉の辞世の句に込められたメッセージとは……。お楽しみに。
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