日本にはいろいろな記念日がありますが、2月3日は「大岡越前の日」なのだそうです。
大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が町奉行に就任したのは、享保2年(1717)2月3日。
それから江戸南町奉行を20年間も務め、数々の「大岡裁き」が、時代劇ドラマや、歌舞伎などで演じられ、今日まで伝えられています。
その中に、「親心」の本質を見抜いた鮮やかな判決がありました。
木村耕一さんにお聞きしました。
──木村耕一さん、どのような事件が起きたのでしょうか。
この事件は、ある男が妻を離縁したところから始まります。
別に妻に悪い所があったわけではありません。好きな女ができたのです。
その後、かねて言い交わしていた女を後妻にめとりました。
──まあ、それは身勝手な話ですね。
はい。離縁された前妻は、親元に帰りましたが、すでに妊娠していました。
やがて女の子を産んだのです。
10年ほどたったある日、後妻が、この子を見て、うらやましくなりました。
「なんて器量のよい娘だろうか。しかも頭もいい。これならば、どこへ奉公に出しても役に立つ」
早速、
「この娘を引き取りたい」
と、前妻の元へ交渉に来たのです。
──まあ、主人も身勝手ならば、後妻も身勝手ですね。
もちろん、前妻は、とても承服できる話ではありません。
前妻と後妻は激しく言い争い、ついに、奉行所へ訴えることになったのです。
──あらら、話が大ごとになってしまいました。
おかしなことに、この時、二人とも、
「この子を産んだのは、私に間違いありません。私が実の母です」
と言い張るのでした。
──ええー、それはおかしいです。
前妻は言います。
「離縁されたあとに、里に帰り、確かに私が産んで育てた子です」
また、後妻は言います。
「私が産んだあと、子どもの養育を前妻に依頼したのです。預けた子どもを返してもらいたいだけです」
どちらが本当の母親なのか。
物的証拠は何もありません。
──そうですよね。この時代にDNA鑑定はなかったですし……。
2人の言い争いは果てしなく続きます。
さすがの大岡忠相も、裁きかねているかに見えました。
やがて奉行は、意外なことを言います。
「そこまで言うならしかたがない。2人の真ん中に、子どもを置いて、双方から左右の手を引っ張りなさい。勝ったほうに、その子を与えよう」
白州で、前妻と後妻が、子どもの手を引き始めた。真ん中に置かれた娘は、
「痛いよう!」
と大粒の涙を流して泣きだした。
その瞬間、先妻は、ハッと驚いたように手を放しました。
最後まで、子どもの手を引き続けた後妻は、
「私の勝ちだわ。この子は私のものよ」
と喜びました。
すかさず、大岡忠相、
「待て待て、そこの女。控えよ」
と大喝しました。
「おまえこそ、ニセモノだ。
誠の母ならば、わが子が苦しんでいる姿を見ておれるはずがない。
子どもの涙は、胸が張り裂けるほどの苦しみを親に与えるものだ。
先妻は、母だからこそ、とっさに手を放したのだ。
おまえは他人だから、子どもの苦しみより勝負のことしか頭になかったのだ」
奉行に、にらみつけられ、後妻は、ただひれ伏すばかりでした。
一切の悪だくみを白状し、娘は、晴れて、本当の母親の元へ戻ったのでした。
(新装版『親のこころ』木村耕一編著より)
今も昔も変わらない「親のこころ」
木村耕一さん、ありがとうございました。
大岡忠相の名判決に、スカッとしました!
また、子どもの苦しみを見ておれない、何とか苦しみを取り除いてやりたいという「親のこころ」は、今も昔も変わらないのですね。
私も子どもの頃、風邪を引いて寝ていると、温かい卵入りのおかゆを、親が作ってくれたのを思い出しました。親心は、とてもありがたいですね。
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