古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

前回は、元は源氏の大将だった熊谷直実(くまがいなおざね)が、打って変わって法然上人(ほうねんしょうにん)のお弟子「蓮生房(れんしょうぼう)」となったドラマをお聞きしました。
その熊谷が、東国へ帰る途中に、かつての戦友、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)に侮辱されると、一触即発の展開に。
どうなるのでしょうか? そして、『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)』の誕生秘話とは?
木村さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)


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「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

どうした熊谷

──法然上人から「そなたは短気だからな。くれぐれも、道中で、争い事を起こしてはならんぞ」と念を押されていた熊谷でしたが、宇都宮頼綱に侮辱されると、刀を取り、宇都宮と対峙してしまいました。

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ところが、どうしたことか、熊谷は突然、刀を捨てて、へなへな……と崩れ落ちてしまったのです。

──え!? どうしたのでしょうか?

そうですよね。これには宇都宮も驚いて、やはり友人ですから体調が悪くなったのかと心配して、
「どうした」
と、駆け寄ってきました。

熊谷は、両手をついて、
「ああ、もったいないことよ。ありがたいことよ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。友人からさえ軽蔑されて当然の俺だ……。こんな者をも、阿弥陀如来(あみだにょらい)なればこそ助けてくだされた……。かたじけなや」。
歓喜と懺悔の念仏に、むせび泣くのでした。かつて、無類の豪傑として知られた熊谷直実からは、想像もできない姿でした。

──あまりの変わりようですが、どうしたワケでしょうか。

熊谷は言います。
「この世の敵から身を守るには、武器や軍勢が必要だろう。しかし、やがて必ず襲ってくる無常の殺鬼(死)の前には、そんなもの、どれだけあっても、何の役にも立たないぞ。わしが持っているのは、この墨染めの衣と念珠だけだが、弥陀の本願に救われた幸せ者じゃ。そなたも一緒に、法然上人から仏教を聞かせていただこうではないか」

心を動かされた宇都宮は、やがて、京都の法然上人を訪ねて、お弟子になるのでした。

小倉山荘の藤原定家が、古今の名歌を選ぶ

中院山荘跡(ちゅういんさんそうあと)」の立て札には、次のように書かれています。

鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生(れんしょう)の中院山荘があった。
蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(しもつけのくに。現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。

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宇都宮頼綱の法名(ほうみょう)にも、熊谷と同じように「蓮生」の文字があります。もしかしたら、熊谷から路上で受けた説法が、よほど心に深く残ったので、同じ名前をつけたのかもしれません。

──友情を感じる名前ですね。

源氏の武将は、命懸けで戦い、平家を倒しました。その結果、鎌倉に幕府が開かれたのです。

──ちょうど、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に描かれているところですね。

では、平家に代わって源氏が世を治めるようになったら、平和で幸せな時代が訪れたのでしょうか。
決して、そうとはいえません。結局、権力や領地をめぐる争いが、絶えることはありませんでした。

まさに『歎異抄』の言葉どおり、
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」
の集まりであり、世の中は、
「そらごと、たわごと、真実(まこと)あることなし」
であったのです。

やるせなさを感じた宇都宮は、鎌倉幕府から離れて出家し、京都へ向かい、熊谷とともに仏教を聞き求めるようになったに違いありません。

──命がけで戦った人ほど、やるせなくなるのではないでしょうか。

「中院山荘跡」の立て札には、続けて、「小倉百人一首」誕生の経緯が、次のように書かれています。

蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家(ふじわらのていか)とも親交があり、彼の娘が定家の子・為家(ためいえ)に嫁いでいる。
嘉禎(かてい)元年(一二三五)五月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。 京都市

宇都宮頼綱は、京都に移り住んでから、嵯峨中院(さがちゅういん)に広大な山荘を築いています。
彼は、和歌の名手であり、高い教養を身につけていました。

──文武両道だったのですね。

近くの小倉山に、『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』の選者として有名な藤原定家の山荘があったので、親しく交際していたようです。しかも、自分の娘が定家の息子に嫁いでいますから、何でも気軽に頼めたのではないでしょうか。

定家は日記(嘉禎元年5月27日)に、次のように記しています。

「宇都宮頼綱が、中院山荘の障子に、古今の名歌を記した色紙を貼りたいので、ぜひ揮毫(きごう)してもらいたいと、懇切に頼みに来た。そこで、古来の歌人の作品を、それぞれ一首選んで色紙に書いて贈った」

この時、藤原定家、74歳。和歌を研究してきた成果の集大成として、優れた作品を選び、色紙に一首ずつ書いていったのでしょう。
これが、「小倉百人一首」の原型だといわれています。

──きっかけは、贈り物だったとは……。すてきですね。

「小倉百人一首」のことなら、嵯峨嵐山文華館へ

京都の嵐山に、国内唯一の、百人一首ミュージアム「嵯峨嵐山文華館(さがあらしやまぶんかかん)」があるという情報をキャッチ!

──早速、訪ねてみましょう。

JR嵯峨嵐山駅から、嵐山のシンボルである渡月橋(とげつきょう)を目指して歩きます。
世界遺産として有名な天龍寺(てんりゅうじ)の前を通り過ぎると、間もなく、桂川(かつらがわ)に架かる大きな橋が見えてきました。長さ155メートルもある橋です。

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鎌倉時代に、ここで月を眺めていた文化人が、その美しさに感動し、「まるで、月が橋を渡るように動いていく」と言ったことから「渡月橋」と名づけられたそうです。

──まるで、うたの世界のようです。

橋のバックには、嵐山がそびえています。春は桜、秋は紅葉、冬は雪景色と、日本の美を象徴する絶景ポイントとして人気がありますが、遠い昔から、貴族や文化人に愛されてきた景勝地なのです。

渡月橋から、川の上流へ向かって数分歩くと、嵯峨嵐山文華館が見えてきました。百人一首ゆかりの小倉山を背にして建っています。

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京都ゆかりの芸術や文化に出合えるミュージアムであり、百人一首の歴史や魅力を伝える展示が常設されています。

展示室へ入り、まず、目を見張ったのが、黄金色の「百人一首かるた」です。上の句、下の句に金箔を散らし、裏地は純金! 漆の二重箱に収められています。江戸時代に婚礼道具として製作されたもののようです。

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──江戸時代の婚礼道具とは! 代々受け継がれてきた文化の重さを感じますね。

もう一歩、中へ進むと、藤原定家の肖像画と、彼の日記の復刻版が置かれていました。

「百人一首」とは、百人の歌人の和歌を、一首ずつ選んだ歌集のことです。
江戸時代には、この歌集をもとに「絵入りかるた」が誕生。そして、現代の「競技かるた」へ発展していく流れが、分かりやすく解説されています。

とてもユニークで、圧巻だったのが、壁面いっぱいに並べられている百首の和歌です。すべてに英訳と、歌人の像が添えられていました。

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作者の人形を見ながら、和歌を読み、英訳を確認するのは、このミュージアムならではの楽しみ方です。

──あ! 私の好きな清少納言(せいしょうなごん)もありました!

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さらに、嵯峨嵐山文華館の近隣5カ所の公園や公有地に、百人一首に選ばれた和歌の歌碑100基あるそうです。最も近い嵐山公園亀山地区(かめやまちく)へ行ってみました。

ミュージアムから、さらに川の上流へ向かって数百メートル進むと、公園の入り口がありました。階段を上ると、小高い山のあちこちに、和歌を刻んだ大きな石が置かれています。

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平安時代の人々は、31文字の和歌に、どんな思いを込めたのでしょうか。
そこには、言い尽くせぬ人生模様があるはずです。

嵯峨嵐山の各地を巡り、百首の歌碑を、すべて確認してみたいなあ、という思いがわき上がってきました。

──木村耕一さん、ありがとうございました。31文字の和歌の一つ一つに込められた思いを知りたくなりました。
次回もお楽しみに。

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