古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18回は「壇ノ浦で舞った男」。源義経(みなもとのよしつね)の活躍で源氏が勝利し、源平合戦に決着が着きました。源頼朝(みなもとのよりとも)の悲願が達成されたのですから、兄弟で祝杯をあげてハッピーエンド。ならよかったのですが、義経は鎌倉へ入れてもらえず、腰越(こしごえ)で足止め。これから悲劇の武将のドラマが始まると思うと切ないですね。
しかし、なぜ、平家と源氏が争うようになったのでしょうか。
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、一人の武将を通して源平合戦を振り返ってみたいと思います。宇治(うじ)の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)から、木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
十円玉の表に刻まれている建物は?
突然ですが、クイズです。
十円玉の表に刻まれている建物は何でしょうか?
──えっと、金閣寺でしょうか?
残念。宇治の平等院鳳凰堂です。
今回は、京都府宇治市へ向かいましょう。
──宇治といえば、宇治茶と『源氏物語』が有名ですね。
はい。しかし今回は、有名な『源氏物語』よりも、あまり知られていない源頼政(みなもとのよりまさ)の足跡を訪ねてみたいと思います。
──その源頼政とは、どんな人でしょうか?
77歳の時に、平等院の境内で自害した武将です。
『平家物語』には、彼の辞世の歌が記されています。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
(意訳)
土の中に埋もれている木には、花が咲くことはない。俺の一生も、長い間、土に埋もれて腐っていく木と同じだったな。
ああ、ついに! 一つの花も咲かせることなく、死んでいくのか。こんな悲しいことがあろうか……。
──心に響く歌ですね。
では、源頼政とは、どんな人物だったのか、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に描かれている源平合戦を振り返ってみましょう。
なぜ起きた? 平家と源氏の争い
日本では、古くから「天皇」を中心に貴族が政治を行ってきました。この政府を「朝廷」といいます。
朝廷に従わない者が出てくると、天皇は、武士団に鎮圧を命じて、権力を保ってきたのです。武士団には、大きく分けて、源氏と平家の、二つの勢力がありました。
ところが、皇室や貴族の間で、次の天皇を誰にするか、高い官職に誰が就くかという争いが起きるようになります。
武士たちは、対立する権力者から誘われ、どちらかに味方して、京都などで市街戦を繰り返しました。
これが、世にいう保元(ほげん)の乱(1156)、平治(へいじ)の乱(1159)です。
──この二つの戦いに勝利したのは平清盛(たいらのきよもり)だったんですね。
はい。清盛は、その後、とんとん拍子に出世を果たし、平家は絶大な権力を手に入れていきます。
逆に、敗れた源氏は、主な武将が殺されたり、流刑に遭ったりして、全く存在感を失ってしまいました。
しかし、源氏でありながら、平治の乱の時、清盛に味方をした武将がいました。
──え、そんな人があったのですか。
それが頼政だったのです。
平家に従ったにもかかわらず、頼政への恩賞は少ないものでした。
それでも頼政は、清盛に忠実に従い続けます。平家への反感を、顔に出すようなことはありませんでした。
そうして約20年の歳月が流れました。
──それは、なかなかできないことですね。
75歳になった頼政は、源氏武将の出身者としては異例の高い官位へ昇進します。これは、清盛が、
「逆賊の多い源氏の中で、頼政ただ一人が、正直で勇名の聞こえが高い」
と、強く進言したからでした。
──いかに頼政が、清盛に信頼されていたかが分かりました。
平家打倒のクーデター、黒幕は?
それから2年後のことです。
以仁王(もちひとおう。皇族)が、平家打倒を目指してクーデターを起こしました。都から、各地に潜む源氏へ、「挙兵せよ」と命令書を送ったのです。
清盛は、源頼政らの武将に、以仁王の逮捕を命じました。
ところがやがて、この反乱を計画した中心人物が頼政だったと判明したのです。
──え? 頼政だったのですか。
「まさか、あの男が!」と、清盛は激怒します。
頼政は、平家からの理不尽な扱いに耐え抜いてきましたが、ついに我慢できず、怒りが爆発したのでした。
清盛は、直ちに鎮圧軍を派遣します。
頼政は、都を脱出し、奈良へ向かっていました。ちょうど、宇治の平等院で休息している時に、平家の大軍に追いつかれてしまいます。両軍は、宇治川をはさんで対峙(たいじ)し、宇治橋で激突したのでした。
今日の宇治橋を訪ねてみましょう。
──よろしくお願いします。
JR京都駅から奈良線の電車に乗り、約30分で宇治駅に着きます。
駅を背に、左へ約8分歩くと宇治橋が見えてきました。
宇治川に架かる宇治橋は、「日本三古橋」の一つに数えられています。
歴史が古く、最初に橋が架けられたのは約1500年も前のことです。奈良と京都を結ぶ重要なルートだったのでしょう。
現在の橋は、平成8年に架け替えられたものです。どっしりとした重厚感があります。
橋の下を見ると、とても流れが急です。橋脚にぶつかる水は、勢いよく白い波を立てていました。
頼政、辞世の歌
──『平家物語』には、この橋の上と下で繰り広げられた戦いが、生き生きと描かれていますね。
はい。そこに描かれている、頼政の最期を意訳しましょう。
(意訳)
平等院では、源頼政の一族が矢を放ち、応戦していました。
77歳の頼政も、先頭に立って奮戦していましたが、左の膝を射られて重傷を負ってしまいます。
そこへ、敵が襲いかかってきました。次男の兼綱(かねつな)が見つけて、父を守ろうと、白い足の馬に乗って駆けつけます。
しかし、兼綱は内兜(うちかぶと)を射られて落馬。立ち上がるところを、14、5騎の敵に囲まれ、父より先に討たれてしまいました。
長男の仲綱(なかつな)も、重傷を負って、自害して果てました。
子供たちを先に亡くした頼政は、家臣に、
「わしの首を討て」
と命じます。家臣は、涙を流して、
「どうして、そのようなことができましょうか。ご自害なされたら、その後に、お首を頂きましょう」
と答えます。
頼政は、
「まことに、そのとおりだ」
と言って、西に向かって「南無阿弥陀仏」と念仏を称え、辞世の歌を詠んだのです。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
頼政は、これを最後の言葉として、太刀の先を腹に突き立てて、亡くなっていったのでした。
(『平家物語』巻四「橋合戦」「宮御最期」より)
頼政が自害した場所は、「扇之芝(おうぎのしば)」と名づけられ、今も平等院に残されています。
宇治橋から歩いて5分ほどの距離ですから、見に行きましょう。
儚い世の中で、つまらない争いをしたものよ
平等院の表門で入場料を払って境内へ入ると、すぐ左側に「扇之芝」がありました。
その名のとおり、扇形に囲まれています。
──なぜ、「扇之芝」というのでしょうか。
それは、世阿弥(ぜあみ)の能「頼政」に由来しています。
宇治を訪れた旅の僧が、
「おお、面白い場所がある、なぜ、ここだけ、扇の形に芝が残されているのですか」
と尋ねると、一人の老人が、
「合戦に敗れた頼政は、ここに扇を敷き、刀を抜きながら辞世の歌を詠みました。名将の古跡なので、ここの芝を扇の形に残しているのです」
と答える場面があるのです。
また世阿弥は、この旅の僧の夢の中に現れた頼政に、
「儚(はかな)い世の中で、つまらない争いをしたものよ……」
と語らせています。
頼政の辞世の歌も、世阿弥の能も、『歎異抄』の次の言葉に通じるものがあるように思います。
(原文)
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなし」(後序)
(意訳)
火宅(*)のような不安な世界に住む、煩悩(*)にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、まことは一つもない。
*火宅……火のついた家のこと
*煩悩……欲や怒り、ねたみ、そねみの心
──木村耕一さん、ありがとうございました。「儚い世の中で、つまらない争いをしたものよ……」のセリフが、心にしみ入りました。いろいろな出来事が人生にあっても、過ぎてしまうと、そらごと、たわごと、何だったのだろう……、と感じます。『歎異抄』は深いですね。次回もお楽しみに。
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