織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政
年を重ねると、他人から注意をされることは少なくなりますが、やはり批判を受けることもありますよね。他人から非難されたら、どうしますか……。
カーっと腹を立ててしまうか、しょんぼり落ち込んでしまうか、私ならどちらかになりそうです。
天下統一を目前にした織田信長は、天正10年(1582)6月2日、「本能寺の変」で、明智光秀(あけちみつひで)に討たれました。
織田信長の側近・堀秀政(ほりひでまさ)は、直ちに豊臣秀吉に従って戦場を駆け抜け、明智光秀を破り、その後も秀吉方の武将として、北国(ほっこく)を支配する要の大名となった超エリート武将です。
堀秀政には、他人からの非難に見事に対処したエピソードがあるのだとか……。木村耕一さんにお聞きしましょう。
城下の大通りに「非難文」の立て札。その時、堀秀政は……
織田信長の側近として活躍した堀秀政は、豊臣秀吉の代になって、越前(福井県)、北庄城(きたのしょうじょう)の城主になりました。
いくら経験豊富な大名といっても、新たな任地をまとめていくのは神経をつかう仕事です。そんな時、一つの事件が起きました。何者かが、城下の大通りに、
「堀秀政の悪政を糾弾する」
と大書した立て札を立てたのです。
具体的な問題点が30数カ条も列挙されていました。
驚いた家臣が、直ちに非難文を撤去して、主人の所へ持ってきました。
「殿、犯人を捜し出し、厳罰に処しましょう」
謀反人でも現れたかのように騒いでいます。
しかし秀政は、持ち込まれた立て札を、黙って読み返していました。
やがて、
「実に、ありがたい指摘じゃ。国主とか城主という立場になってしまうと、もう誰も私の悪いところを注意してくれる者がない。まさに、天の声だ。我が家の宝である」
と語ったのです。
そして、非難文を敬って三度も押し頂き、箱に納めて大切に保管したそうです。
続いて、家臣を全員、城に集めて、緊急会議を開いています。
指摘された30数カ条を、一つ一つ検討し、徹底的に話し合ったのです。
なぜ、こういう非難が出たのか。
現状はどうなのか。
どう改善すればいいのか。
誤解ならば、誠意を尽くしていれば、やがて解けるでしょう。
ですが、多少なりとも問題のあるところは、すべて改めていきました。
この効果は、内治の充実として、すぐに表れました。
よくなった政治を見て領民は、秀政を「名君」と慕うようになっていきました。
非難を受けたときに、腹を立てるか、向上のチャンスにするかで、未来は大きく変わってくるのです。
(『新装版 こころの道』木村耕一編著、『マンガ 歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい大切な心4』原作・監修:木村耕一 まんが:太田寿より)
非難を向上のチャンスに
木村耕一さん、ありがとうございました。
非難を受けると、どうしても腹が立ったり、いじけたり、落ち込んだりしてしまうなと反省しました。
「非難を向上のチャンスにする」とは、未来を明るくするヒントですね。
心がけたいと思いました。
書籍と漫画で両方楽しめます
今回ご紹介した堀秀政のエピソードは、『新装版 こころの道』と、『マンガ 歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい大切な心4』に掲載されています。
お近くの書店にてお求めください。
ご自宅へお届け希望の方は、
電話: 0120-975-732(通話無料)、
または、思いやりブックス(本の通販)に
お問い合わせください。