古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第24回では、源頼朝(みなもとのよりとも)の愛娘(まなむすめ)・大姫(おおひめ)が病で亡くなりました。
父の権力と時代の流れに翻弄された大姫。幸せとは何か、考えさせられました。
さて、時代は遡り平安時代中期、日本の政界で絶大な権力を振るっていたのが藤原道長(ふじわらのみちなが)です。
「この世は、私のためにあるようなものだ」
と歌にするほど、得意の絶頂でしたが……。
ほどなくして、体調を崩した道長はどうなるのでしょうか。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
満月のような幸せから一変
藤原道長は、25年間も丹念に日記を書いていたようです。
寛仁2年(1018)10月16日、満月の夜。
道長53歳の時、祝いの酒宴を催した時に詠んだ歌があります。
この世をば わが世とぞ思う 望月(もちづき)の
欠けたることも なしと思えば
(意訳)
この世は、私のためにあるようなものだ。今宵の満月には、欠けたところがないように、私の願いで、かなわないものは一つもない。最高の幸せ者だ。
──まさに、得意の絶頂ですね。
はい、ところが、年が明けると、急に体調を崩します。
1月10日の日記には「胸の発動、前後不覚」、17日には「胸の病発動し辛苦終日」と記し、胸の痛みに苦しむようになります。
2月6日には、「目尚(な)お見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只(ただ)手に取る物ばかり之(これ)を見ゆ」と書いています。
目が悪くなり、近くの人の顔がぼやけて見えない、手に取った物しか見えない、目が見えなくなるのではないか……と不安をつづっています。
3月に入ると、さらに目が悪くなり、胸の苦しみも治まりませんでした。
──えー、こんなに短期間で変わってしまうとは、驚きます。
そうですね。
「この世では、自分の思いどおりにならないものはない」と、あれほど豪語していた道長も、「病」と「死」には、どうすることもできなかったのです。
「このまま、死ぬのではないか」と思うと、ますます不安が高まります。
──それは不安です。
道長は、3月21日に出家しました。これには親族から引き止める声もあったようです。
しかし、「死後、極楽(ごくらく)へ往生(おうじょう)したい」という強い思いが、道長を動かしました。
さらに、浄土往生の願いをかなえるために、自分の屋敷の近くに、広大な寺院を建立することにしたのです。
権力と財力がありますから、相当のことができます。
毎日、数え切れないほどの人が動員されました。建築用の材木は、鴨川(かもがわ)から筏(いかだ)で運ばれてきます。
阿弥陀仏(あみだぶつ)を安置する荘厳な阿弥陀堂や金堂(こんどう)などが次々に建設されていきました。庭の砂は水晶のように輝き、池の中には蓮が植えられていたといいます。
まさに極楽浄土を思わせる大寺院が落成し、「法成寺(ほうじょうじ)」と名づけられました。
──「死後、極楽へ往生したい」という強い思いで、建立されたのですね。
道長は、極楽往生を願って念仏を称える日々を過ごします。
56歳になった道長は、日記に、9月1日から5日までに称えた念仏の回数を、11万遍、15万遍、14万遍、13万遍、17万遍と記しています。これが、道長の生涯で、最後の日記になりました。
──毎日、こんなに念仏を称えていたのですか。必死さが伝わってきます。
いよいよ病が重くなると、法成寺の阿弥陀堂へ病床を移し、極楽往生を願いながら亡くなったと伝えられています。
道長、62歳でした。
果たして道長は、阿弥陀仏に救われ、極楽に往生したのかどうか、誰にも分かりません。
──すみません。やはり、豪華な寺を建てられるような財力がなければ、救われないのでしょうか? また、何万遍も念仏を称えなければ、助からないのでしょうか?
はい、『歎異抄』には、この問いに、ズバリ、答えが示されています。
(原文)
弥陀の本願には老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をえらばず、ただ信心(しんじん)を要(よう)とすと知るべし(第1章)
(意訳)
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切の差別はない。ただ信心を肝要と知らねばならぬ。
阿弥陀仏の救いには一切の差別はありません。老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別はないのです。金持ちであろうと、経済的に困っている人であろうと、なんの隔てもないのです。
しかし、「ただ信心を要とすと知るべし」と、クギをさされています。
信心一つで極楽に往生するのだと教えられています。(「信心」については、『歎異抄』に明らかにされています)
──えー、『歎異抄』って、すごいことが書かれているのですね。
道長の法成寺はどこへ
──藤原道長が建立した法成寺は、現在、どうなっているのでしょうか。
はい。邸宅であった土御門第(つちみかどてい)と、鴨川の間にそびえていたはずです。
京都御苑(きょうとぎょえん)の清和院御門(せいわいんごもん)を出て、鴨川の荒神橋(こうじんばし)へ向かってみました。
すると、鴨沂高校(おうきこうこう)のグラウンドの前に、
「従是東北 法成寺址」
と刻まれた石碑が建っていました。
付近に、寺の面影はありません。
京都市が、法成寺跡という案内板を掲げていました。
次のような内容です。
藤原道長は、10年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂を建立した。鴨川から臨むその姿は宇治川(うじがわ)から見える平等院(びょうどういん)のモデルともいわれている。度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれ(『徒然草』)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。
ここには寺跡を示す「従是東北 法成寺址」の石碑がある。平成20年3月 京都市
──今となっては、跡形もないのが残念です。
鴨川に架かる荒神橋から上流を眺めると、京都御苑側に、京都府立医科大学と大学附属病院が見えます。
千年前は、この方向に、道長が建立した壮大な法成寺がそびえていたに違いありません。
──想像力が掻き立てられますね。
頼通の平等院建立
藤原道長が築いた権力の座は、嫡男の頼通(よりみち)が引き継ぎ、親子二代にわたって、藤原氏の全盛時代を迎えました。
頼通は晩年になってから、宇治に残されていた父・道長の別荘を寺院に改修しました。これが、平等院です。
父にならい、阿弥陀堂を中心とした壮大な寺院を建立し、極楽往生を願ったのです。
──あれ、「鳳凰堂(ほうおうどう)」ではないのですか?
頼通が建立した阿弥陀堂が、「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは、江戸時代になってからでした。
屋根に飾られていた鳳凰の姿が、よほど大きなインパクトを与えたので、呼び名まで変わってしまったのでしょう。
──そうだったのですね。
道長と頼通の親子が、政治の世界で生きて、栄華を築いた総決算が、平等院鳳凰堂となって、日本人の心に長く残っているのです。
──木村耕一さん、ありがとうございました。どんなに成功した人でも、死んだらどうなるのか、という不安があったのですね。自分自身の人生を見つめるキッカケになりました。次回もお楽しみに。
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