古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
8月11日は山の日です。
山といえば、前回、木村耕一さんが、『平家物語』に描かれている「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀」の俊寛(しゅんかん)の山荘跡に向かって、山を登っていました。
無事にたどり着けるのでしょうか。木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
俊寛僧都旧跡道
──京都の登山道にいる木村さん、いかがですか。
はい、すれ違ったご婦人から教えてもらった道を歩いてみると、ところどころに木が倒れています。
斜面が崩れている所もありました。しかし、歩くのに障害になる倒木は切ってあります。崩れた道には丸太で橋が架けてありました。
山の中は薄暗く、小さな滝を流れ落ちる水の音だけが響いてきます。
道が水浸しになっている所もあるので、油断すると、滑ってしまいます。
「どこまで上ったら、俊寛の石碑があるのだろうか……」
次第に不安になってきました。
分かれ道には、「京都一周トレイル」の標識があり、
「俊寛碑を経て大文字山(だいもんじやま)」
と、道順が示されています。現在地を表す番号も記されていて、
「非常時には、この標識番号を警察・消防に連絡してください」
と書かれています。
山の中で迷ったり、体調を崩したりした時には、携帯電話で連絡すれば助けてもらえるということでしょう。
──これは、本格的な山登りですね。
勇気を振り絞って、急な石段を上っていくと……。
ついに、現れました。
山の斜面に、高さ3メートル以上もある巨大な石碑が建っていました。「俊寛僧都忠誠之碑(しゅんかんそうずちゅうせいのひ)」と刻まれています。
俊寛の山荘は、この辺りにあったといわれているのです。
南海の孤島へ流刑になった俊寛
──木村さん、山奥までお疲れさまでした。
確かに、こんな山奥ならば、どれだけ大きな声で平家の悪口を言っても、誰かに聞かれる心配はありません。
この俊寛の山荘で、どのようなことが語られていたのか。『平家物語』の一節を意訳してみましょう。
◆ ◆
ある日、後白河法皇(ごしらかわほうおう)も、この山荘へ来て、謀議に参加したのです。
夜になると、酒宴が始まりました。
この席に、法皇が「この人物ならば、きっと味方になってくれる」と信じて、静憲法印(じょうけんほういん)を呼びました。
ところが、平家打倒の計画を聞かされた静憲法印は、
「ああ、とんでもない……。こんなに多くの人が聞いている場で、そんな無謀なことを言われるとは! 必ずや、この陰謀が漏れて、天下の一大事になるでしょう」
と、慌てふためき、止めようとしました。
首謀者である藤原成親(ふじわらのなりちか)の顔色が、さっと、変わります。
「これは、まずい!」と感じたのでしょう。すかさず席を立ち、後白河法皇の前に並んでいる素焼きの瓶子(へいじ。酒とっくり)を、わざと衣の袖に引っかけて、倒してしまいました。床には、瓶子から酒が流れ出ていきます。
法皇が、
「これは、どうしたことか」
と言うと、成親は、
「瓶子(平氏)が倒れました」
と、澄まして答えます。その心は、
「冗談、冗談、誰も平氏を倒すなんて言っていませんよ。今宵は、瓶子を倒すほど酔いつぶれましょうという意味ですよ」
とごまかしたかったのです。
これには一同から、どっと笑いが起きます。
法皇も、満足げに、
「皆の者、猿楽じゃ、猿楽を演じなさい」
と戯れます。猿楽とは、滑稽な寸劇のことです。
早速、平康頼(たいらのやすより)が立って、
「ああ、あまりにも瓶子(平氏)が多いので、悪酔いをしてしまいました」
と戯れます。
続いて、俊寛僧都が、
「さて、多すぎる瓶子(平氏)を、いかがいたしましょう」
と応じると、西光法師(さいこうほうし)が、
「瓶子(平氏)の、首を取るのがよろしいでしょう」
と言って、瓶子(酒とっくり)を割って首を落として席に戻りました。
後白河法皇に、思いとどまるように進言した静憲法印は、この有り様を見て、あきれ返り、もう何も言うことができませんでした。
鹿ケ谷の秘密会議には、摂津国(せっつのくに)の武士、多田行綱(ただゆきつな)も参加していました。
首謀者の藤原成親から、
「あなたを一方の大将として頼みにしている。平家打倒が成就したなら、国でも荘園でも、望みどおりに与えよう」
と、軍資金を渡され、戦いの準備をしていました。
しかし、次第に、
「本当に、この人たちと運命をともにして大丈夫だろうか」
と疑問を感じ始めたのです。
すでに軍資金を受け取り、使ってしまっている以上、後には引けません。
行綱は悩みます。
「平家の力は、実に強大だ。平家は、これから、ますます繁栄するだろう。それを今、藤原成親の力で滅ぼすことなど、できるはずがない。つまらないことに加担してしまったものだ。もし、謀反の計画が漏れたら、真っ先に、この行綱が殺されるだろう。何とか、命が助かる方法はないだろうか……。そうだ、他人の口から秘密が漏れる前に、寝返りして、平家に忠誠を誓おう」
こう結論を出した行綱は、夜が更けてから、清盛(きよもり)の屋敷へ向かったのです。
「後白河法皇のご命令だと言って、藤原成親が兵を集め、平家を滅ぼそうとしています」
行綱は、鹿ケ谷の山荘で、誰が、どんなことを言い、何をやっていたかを、一部始終、事実よりも大げさに密告したのです。
清盛は、大きな衝撃を受けました。
「すぐに武者を集めよ」と、大声で叫びます。
そのすさまじい気迫は、大変なものでした。
行綱は、証人として捕らえられはしないかと恐れをなし、震え上がってしまいました。広い野原に火を放ってしまったような気がして、誰も追ってこないのに、大急ぎで門外へ逃げ出していきました。
◆ ◆
──これは大変なことになりました。
激怒した平清盛は、後白河法皇の側近として威勢のよかった西光、藤原成親を惨殺します。
さらに、藤原成経(ふじわらのなりつね。藤原成親の長男)、平康頼、俊寛の三人を、南海の孤島・鬼界が島(きかいがしま。現在の鹿児島県の沖)へ流刑にしたのでした。
俊寛は「僧都」という高い位を持つ僧侶でした。しかも、京都の大寺院の重要な立場にあり、80余カ所の荘園の事務を取り仕切っていました。羽振りもよく、大きな門構えの邸宅に住んでいたといいます。4、500人もの部下や使用人に囲まれて采配を振っていたのです。
そんな俊寛が、平家打倒の密議に、どれほど深くかかわっていたのかは分かりません。
しかし、突然、逮捕され、流罪に処せられたのです。
やがて、恩赦が発表され、鬼界が島の流人も都へ帰されることになりました。ところが、清盛が出した赦免状の中には、俊寛の名前がなく、彼だけが迎えに来た船に乗せてもらえなかったのです。
「どうして自分だけ、島に置き去りにされるのか」と泣き叫びますが、どうにもなりません。絶望した俊寛は、食べる物も、着る物も満足にない鬼界が島で亡くなっていきました。37歳だったといいます。
──そんなに若かったのですね。なぜ、赦免状に、俊寛の名前がなかったのでしょうか。
はい。『平家物語』には、清盛が、次のように語ったと記されています。
「俊寛は、この清盛が、あれこれと口添えをしてやって、一人前になった者だぞ。それが、よりによって、自らの鹿ケ谷山荘で、平家を滅ぼす陰謀を巡らしていたのだ。俊寛の赦免だけは、思いも寄らぬことだ」
恩を仇(あだ)で返された清盛の怒りは、甚だしいものだったのです。
ことわざに、「おごる平家は久しからず」とあります。
地位や財力を誇って、思い上がったふるまいをする者は、長続きしない、必ず破綻する、と戒めた言葉です。
「おごる平家は久しからず」と聞くと、ついつい、「そうだ、そうだ、清盛が調子に乗って、勝手なことばかりしたから、平家は滅んだのだ」と思いがちです。
しかし、平家だけが自惚(うぬぼ)れて、思い上がって、身を滅ぼしたのではありません。
『平家物語』には、清盛と同じように、地位や権力におごり、都合の悪い相手を排斥しようとして、自滅していった人たちの姿が多く描かれています。
──木村耕一さん、ありがとうございました。古典を読むと、歴史は繰り返されるように感じます。自分も同じ失敗をしないように、気をつけたいと思いました。