連続テレビドラマが放送されているときは、
1週間に1度、ドラマを見るのが楽しみ、という人も多いのではないでしょうか。
ところでクールの変わり目によく聞かれる声があります。
それは「明日から何を楽しみに頑張ろう…」楽しみが終わってしまったあとの喪失感です。
一体、この喪失感はどうして起きるのでしょうか。
喪失感の原因を仏教の観点から学びましょう。
登場人物
真理子
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中2の娘と小4の息子を持つワーキングマザー。お気に入りのカフェで行われている「仏教塾いろは」に参加しはじめる。 |
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智美
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真理子さんのママ友達で、在宅でデザインの仕事をしている主婦。 |
塾長
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仏教塾いろはの塾長。アメリカの大学で仏教の講義をしていた。店長とは旧知の仲。 |
夏の日差しが眩しい休日。今日は仕事も家事もちょっとお休みして、カフェで優雅なランチタイム。
ふわふわ卵のサンドウィッチを食べながら、真理子と智美の会話が弾む。
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智美さん、昨日ドラマの最終回見た?
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見ました、見ました。
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そうそう。でも、ドラマが終わっちゃって、来週から楽しみがなくなっちゃったのよね〜。
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そうですね。寂しくなります。次の新しいドラマも面白かったらいいんですけど。
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本当よね。ずっと楽しい気持ちのままで、いられたらいいのに。
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続く楽しみってないのでしょうか。
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あ。そういえば、塾長から聞いたことがあるわ。
楽しみの後にやってくる「喪失感」
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仏教で説かれる「続く楽しみ」についてお話ししますね。
「1週間、これがあるから頑張れる」と毎週楽しみにしていたドラマはありませんでしたか?
夢中になっているときはいいのですが、ついにドラマが終わってしまうと「面白かった。ハッピーエンドでよかった!」と思うと同時に、「終わっちゃった。明日から何を楽しみに頑張ろうかな…」という気持ちになってしまいます。
このように楽しみがなくなった後、気持ちが落ち込んで喪失感を抱くことを「◯◯ロス症候群」といいます。略して「◯◯ロス」。ロス(loss)は「失うこと、喪失」という意味ですね。
テレビドラマが終わったときもですが、他にもロスは見られます。
「熱中していたゲームをクリアしたら、暇になっちゃったなぁ」
「大好きな漫画の連載が終わっちゃった。もう続きないんだ…」
「コンサート、盛り上がったけど、次は半年先かあ…」
「楽しかった夏休みも明日で終わりか…」
漢の武帝は、この喪失感を
歓楽極まりて哀情多し
と言いました。
歓楽(喜びや楽しみ)が頂点に達すると、かえって哀情(悲しい気持ち)でいっぱいになる、ということですね。
武帝のように「終わっちゃったな…」と思わずタメ息を漏らしてしまった人もあるのではないでしょうか。
喪失感を埋めてはまた失い…の繰り返し
ではこの喪失感を何で埋めているでしょうか。
春のドラマの後は、夏のドラマ。テレビ関係の雑誌もすぐに特集を組みます。
もう少しお金と時間をかけて、映画を見たり、コンサートに行ったり、テーマパークや旅行に出かけてみたり…。喪失感を埋めるためには、次の楽しみが必要です。
しかしその次の楽しみも、やがて終わりがやってきます。するとまた、喪失感が生まれるのです。
楽しい日々にしたいと思いながら、結局は、楽しみと喪失感を繰り返してしまっているのですね。
楽しみに終わりがある限り、楽しみと喪失感は切り離すことができません。
しかも楽しみが大きいほど終わったときの喪失感は深くなります。
中には、日々癒しを与えてくれたペットを失い、立ち直れなくなってしまう「ペットロス症候群」や、子育てが終わり、大きかった生き甲斐を失って抑うつ状態となる「空の巣症候群」など、深刻なケースもあります。
失ったものが大切なものであればあるほど、他のものでは簡単に埋められないのです。
喪失感が起きるのは楽しみが「続かない」から ~諸行は無常~
喪失感はなぜ起きるのでしょうか。
それは楽しみが続かないものだからです。
続かないことを仏教では「無常」といいます。
無常について、「本当の幸せ」を解説した『生きる意味109』では以下のように書かれてあります。
「諸行無常」は仏教の特徴的な教えの1つで、軍記物語の最高傑作といわれる平家物語の冒頭にも、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」
と出てきますので、学校で覚えたこともあるのではないでしょうか。
どんな意味かといいますと、
「諸行」とはすべてのもの。
「無常」とは常がない、続かない、ということです。
ですから、「諸行無常」とは、すべてのものは続かない、変わり通しであるということです。この本も続きません。だんだん古くなっていき、最後処分される時がやってきます。
地球や太陽でさえも、あと50億年の寿命といわれます。物質を構成しているミクロの素粒子でさえも寿命があるのです。この世の一切は続かないのです。
(『生きる意味109』長南瑞生著 より引用)
すべてのものは常がない、続かないことを「諸行無常」といわれるのですね。
日々の楽しみも、大事にしているものも例外ではありません。そして終わりがきたときに、底なしに落下していくような喪失感に襲われるのです。
「変わらない幸せ」があるからこそ楽しみが生かされる
すべてのものは続かない、と聞くと、「続かなくて喪失感に襲われるなら、楽しまないほうがいいの?楽しみなんて求めない、無味乾燥な人生が良い人生なの?」と思われるかもしれません。
しかし楽しみが無意味、と言いたいのではありません。
楽しい気持ちにさせてくれる趣味や生き甲斐がなければ、生きていけません。
楽しみにしているドラマや映画、コンサート、旅行が取り上げられたら、何もやる気が起きなくなってしまいますね。
だから楽しみは無意味なものでは決してありません。
しかしその楽しみだけでは、やはり喪失感を抱き、苦しむことになってしまいます。
仏教では「一切が変わりゆく世の中で、それでもなお変わらない幸せがある」ことを教えられています。その幸せがあるからこそ楽しみも生かされるのです。
「変わらない幸せ」について、『生きる意味109』では以下のように書かれています。
「変わらない幸せ」は名文の誉れ高い『歎異抄』では、「摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)」と記されています。
「摂取不捨の利益」の「利益」とは、幸福のことです。
「摂取」とは、おさめ取る、ということですから、完成があるということです。完成があるから、大満足できるということです。
「不捨」とは、捨てず、ということですから、変わらないということです。変わらないから大安心できるということです。
(『生きる意味109』長南瑞生著 より引用)
「摂取不捨の利益」はあまりに深い内容で、ここでは説明し切れないのですが、変わらない幸せ、「摂取不捨の利益」があるからこそ楽しみも喪失感で終わらず、本当に活かされることをぜひ知っていただきたいと思います。
「摂取不捨の利益」の詳細を知りたい方は、ぜひ歎異抄の解説書を手にとってみてください。
まとめ
- 楽しんでいたことも終わってしまうと、気持ちが落ち込んで喪失感を抱きます。このことを漢の武帝は「歓楽極まりて哀情多し」と言いました
- 喪失感を埋めるためには次の楽しみが必要であり、私たちは日々、楽しみと喪失感を繰り返して生きています
- すべてのものは続かないことを仏教で「諸行無常」といいます。諸行は無常であるので、私たちの楽しみはどうしても続かないのです
- すべては無常と聞くと、楽しみは無意味なのかと思いますが、そうではありません。仏教では「無常の世の中で、変わらない幸せがある」と教え、その幸せがあるからこそ、趣味や生き甲斐の楽しみも生かされるのです
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