今回紹介するのは、光源氏に初めて失恋の衝撃を与えた女性・空蝉(うつせみ)です。
空蝉は光源氏から逃げ続けたことで有名です。
しかし、決して光源氏を嫌っていたわけではありません。
心は彼に惹かれながらも、拒み続けていたのです。
では、なぜ空蝉は光源氏を拒んだのでしょうか?
作者の紫式部がモデルと言われている、空蝉の心の内をのぞいてみましょう。
空蝉って、どんな人?
空蝉はもともと上流貴族の娘でした。
父親は宮中に妃として入れたかったようですが、父が亡くなり、宮中に入ることはできませんでした。
結局、中流貴族の後妻になります。
夫とは親子ほども年が離れていました。
夫は空蝉との結婚を喜んでいます。
しかし空蝉は、中流貴族の身分に落ちたことを恥ずかしく思い、夫に対しての愛情は淡々としたものでした。
地味ではありますが、立ち居振る舞いが上品で控えめな女性です。
光源氏との出会い
空蝉と光源氏の出会いは梅雨の頃でした。
空蝉は事情があって、継子(夫と前妻の子ども)の家に移っていました。
そこへ、光源氏が「片違え(かたたがえ)」で泊まりに来たのです。
片違えというのは、目的地に向かう方角が悪いとされるときに一度別の方角に出かけ、そこから元の目的地へ向かうという当時の習慣です。
光源氏は友人から、中流階級の女性には魅力があると聞き、関心を持っていました。
そのため、中流階級の空蝉のところにやってきたのです。
光源氏が泊まりに来た夜、みんなが寝静まり、空蝉も眠っていました。
ふと、空蝉の上にかけてある着物がとられます。
空蝉は目を覚ましましたが、女房(お世話をする女性)だと思って安心していました。
ところが男の声がしたのです。客人の光源氏でした。
空蝉は「あっ」と脅えた声を出したものの、顔にかぶさった着物で消されてしまいます。
光源氏は真剣に切々と恋慕の情を訴えてきました。
夫のいる身で、あってはならないと情けなく、空蝉は「人違いでしょう」と言うのが精一杯です。
「嫁ぐ前の娘の時ならば、分不相応なうぬぼれでも、いつかは愛してくださるかもしれないと、慰められるでしょう。しかし、一時の気まぐれの逢瀬だと思うと、どうしようもなく悲しいのです…」
【原文】
いとかく憂き身のほどのさだまらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばえを見ましかば、あるまじき我頼みにて、見なおしたまう後瀬をも思うたまえ慰めましを、いとこう仮なる浮寝のほどを思いはべるに、たぐいなく思うたまえまどわるるなり。
源氏のうつくしさ、魅力に圧倒されながらも拒み続ける空蝉は、簡単には手折れそうもありませんでした。
しかし、結局は結ばれてしまいます。
光源氏は誠心誠意慰めますが、空蝉は打ちひしがれました。
逃げる空蝉…。光源氏との2度の攻防
光源氏との出会いからしばらくして、一緒に暮らしている幼い弟・小君が光源氏の手紙を預かって持ってきました。
うまく手なずけられたようです。
手紙には次のように書かれています。
見し夢を あう夜ありやと 嘆くまに 目さえあわでぞ ころも経にける
(先だっての夜の夢が現実となって、もう一度逢える夜があるだろうかと嘆いていると、眠れぬまま何日もたってしまいました)
空蝉の元には光源氏からの手紙がしょっちゅう届きました。
小君が持ってくるのです。
このあと、空蝉と源氏は2度の攻防を繰り広げることになります。
➀光源氏から予告の手紙が来る
ある日、光源氏から空蝉に手紙が届きました。
手紙には今晩彼が訪ねてくると書いてあります。
会ったところで、あの夜の悲しみを繰り返すだけ。彼を待ち焦がれているようなのもはしたない…。
空蝉は悩んだものの、肩や腰を叩いてもらいたいと女房の部屋へ逃げることにしました。
「独身で実家にいて、たまにでも光源氏様が来てくれるのを迎えるなら、幸せだっただろう。光源氏様は、中流の身分でありながら拒む私を、どんなに身の程知らずと思っていることか」
空蝉の心は切なくて乱れますが、これが私の人生だから、強情な女だと思われたままで通そうと決めました。
空蝉に逢えなかった光源氏は次のように詠みます。
帚木<ははきぎ>の 心を知らで そのはらの 道にあやなく まどいぬるかな
(近寄ると消えるという伝説の木・帚木のような、冷たいあなたの心を知らず、近づこうとして、園原の道にむなしく迷ってしまいました)
一睡もできなかった空蝉は歌を返しました。
数ならぬ ふせ屋におうる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木
(ものの数にも入らない貧しい家に生えているのが情けなく、いたたまれずに消えてしまう帚木、それが私です)
➁光源氏が予告もなく訪れる
空蝉は源氏との一件以来、眠りの浅い日が続いています。
ある夜のこと、彼女は継娘と2人、同じ部屋で寝ていました。
ふと衣ずれの音とともに、決して忘れることのできない香が漂ってきたのです。
暗い中でも誰かが近づいてくるのがはっきり見えます。
間違いなく、光源氏でした。
前回手紙で知らせて逃げられてしまったことから、今回は予告なくやってきたのです。
空蝉は「なんということだろう…」と思い、そっと起きて、すべるようにその場を抜け出しました。自らの薄衣を残して。
光源氏は空蝉の残した薄衣をさりげなく拾って、明け方近くに帰っていきました。
こんなに拒まれるなど経験したことのない光源氏は、心中悔しくてたまりません。
光源氏はあらたまった手紙を書くのではなく、懐紙(ふところがみ:懐に携帯し、メモなどをする紙)に歌を書きつけました。
うつせみの 身をかえてける 木<こ>のもとに なお人がらの なつかしきかな
(蝉が脱け殻を残して去ってしまった木の下で、もぬけの殻のように薄衣を残して去ったあなたの人柄に、やっぱり心惹かれます)
小君が持ってきて、姉に見せます。
空蝉は、源氏の使い走りになっている弟を厳しく叱りました。
でも、その紙にじっと見入ってしまいます。
しばらくして、同じ紙の端に、歌を書きつけました。
うつせみの 羽<は>に置く露の 木隠<こがく>れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
(空蝉の羽についた露が、木陰からは見えないように、私の袖も、人目につかずにひっそりと涙に濡れることよ)
空蝉が光源氏を拒む2つの理由
空蝉は光源氏の魅力に惹きつけられながら、なぜこんなにも拒むのでしょうか。
それには2つの理由があります。
➀恋愛に対する価値観
1つは、夫のある身で、光源氏と関係を持ちたくないという気持ちからです。
空蝉は光源氏と出会ったとき、「まだ独身の時ならよかったのに…」と切なく思っています。
彼女の中には、夫のある身で他の男性と付き合うべきではないという価値観があったのでしょう。
ですから、あるべき生き方を貫き、自分の恋心には蓋をしたのでした。
この価値観は、現代においては当たり前のこと。
しかし一夫多妻が常識だった当時、ここまで拒むのは珍しかったのではないでしょうか。
そこに空蝉という女性の人柄があらわれているように思います。
➁身分違いの意識
もう1つの理由は、上流階級の光源氏と、中流階級の家に嫁いだ自分との身分の違いを意識していたからです。
身分や容姿、年齢を思っては、光源氏とはあまりにも釣り合わないと恥ずかしく思っていました。
自分はもともと上流階級の生まれだったというプライドも当然あったでしょう。
だからこそ、光源氏の一時的な慰めの対象になりたくないという強い意志を持っていたのです。
結果的に彼女は、光源氏の心に深く残る女性となりました。
光源氏への複雑な想い
その後も光源氏からは時々手紙が届き、返事だけは書きます。
本当にいやなら返信をしなければいいのですが、源氏に忘れられたくない空蝉は書かずにいられません。
秋も過ぎていく頃、光源氏が病気と聞き、自分から手紙をしたためました。
自分のことを忘れたのではないか、と思ったからでした。
源氏から返事がきます。
空蝉の 世はうきものと 知りにしを また言の葉に かかる命よ
(この世はつらいものと思い知ったのに、またあなたの言葉にすがって生きようと思います)
空蝉は心をときめかせるのでした。
しかしその年の冬の初め、空蝉は夫と伊予(現在の愛媛県)に行くことになりました。
話を聞いた光源氏から送られてきた餞別の中に、自分の残した薄衣があるではありませんか…。
源氏は、「また逢うまでの形見と思っていましたが、薄衣の袖も私の涙ですっかり朽ちてしまいました」と手紙を添えています。
空蝉は返事を小君に持たせました。
蟬の羽<は>も たちかえてける 夏衣<なつころも> かえすを見ても ねは泣かれけり
(蝉の羽のような夏衣を裁ちかえて、衣がえをすませた今、あの時の薄衣をお返しになるなんて、蝉のように泣かずにはいられません)
光源氏に持っていてほしかったのですね。
出家しても続く光源氏との縁
その後何年か経って、空蝉は夫とともに都へ帰ってきました。
空蝉の夫はまもなく老衰のため亡くなってしまいます。
夫は空蝉のことを大変心配し、子どもたちへ「くれぐれも大切にお仕えするように」と遺言しました。
しかし、しばらくすると子どもたちの態度は冷たくなり、一人ずっと親切だった継子は空蝉に言い寄ってくるのです。
継子と結ばれるなんてとんでもない、と思った空蝉は、継子から逃れるために出家してしまいました。
出家したら、もう恋愛はできないからです。
ところが、出家したはいいものの、空蝉には経済的な後ろ盾がありません。
当時、経済的な援助がないのに出家するのは珍しいことでした。
光源氏は空蝉を別邸に引き取ることにします。
困窮していく様子を見かねたからかもしれません。
数年が過ぎて二人のやり取りが語られています。
「出家したあなたのことはあきらめるしかないのですね。でも付き合いは絶えることなく…」という源氏に対して、空蝉は「頼らせていただき、深いご縁を知らされます」と返しました。
昔話に泣く空蝉は、以前よりずっと奥ゆかしくて魅力があるように源氏には映ります。
空蝉の、秘める彼への想いもあったからでしょう。
まとめ:空蝉の心に秘めた恋心
空蝉は、光源氏との縁がずっと続いていたものの、最後まで恋愛関係になることはありませんでした。
身分違いの自分が光源氏と関係を持てば、みじめな思いをすると考えたからでしょう。
作者・紫式部は、変わらぬ意志の強さがあるところを、自分と重ねて書いていたのかもしれません。
しかし一方で、光源氏への恋心を断ち切ることはできなかったようです。
表面上はとことん逃げて拒み続け、決して恋心は見せませんでしたが、忘れられたくないと自ら光源氏に手紙を送ったりしていましたね。
あるべき姿と恋心の間で葛藤していた空蝉。
意志を貫き通す芯の強さと、心に秘めた恋心のギャップが印象に残るヒロインです。
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空蝉と同じく、中流階級の女性に夕顔(ゆうがお)がいます。
夕顔は空蝉とはまた異なるタイプのミステリアスな女性で、光源氏を夢中にさせる不思議な魅力を持っていました。
では、夕顔はどのようなヒロインなのか、次回の記事で紹介したいと思います。
夕顔の記事はこちらです。
こちらの記事では、原文の流れに沿って『源氏物語』を解説しています。
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