今もよみ継がれる『百人一首』
「鎌倉殿の13人」で話題の源実朝(みなもとのさねとも)は、『百人一首』に歌が掲載されるほど、歌人としても有名です。
年明けには「小倉百人一首競技かるた第68回新春全国大会」が予定されています。平安時代、鎌倉時代に詠まれた歌が、今もなお、よみ継がれているのに、胸が熱くなりますね。
今回は『百人一首』から、『蜻蛉(かげろう)日記』の作者・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の歌を、ご紹介したいと思います。昔も今も、お金持ちや、立派な家柄の人と結婚すると、周囲から羨望の眼差しで見られますよね。高い身分の人と結婚した彼女は、どんな思いだったのでしょうか……。
木村耕一さんにお聞きしました。
『蜻蛉(かげろう)日記』の嘆き
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る藤原道綱母(954年に藤原兼家と結婚し、翌年、道綱を生む。『蜻蛉日記』の作者)
【意訳】
嘆きながら、一人でわびしく寝ている夜は、朝までの時間が、どんなに長く感じるか、お分かりですか。あなたには、お分かりにならないでしょうね。
──始まりが「嘆きつつ……」ですが、この歌の作者は、何を嘆いているのでしょうか。
はい、作者の名は「道綱母」とあるだけで、本名は分かりません。彼女は、平安時代の中流貴族の娘です。和歌の名手であり、「本朝三美人」の一人といわれる美しい人だったようです。
──才色兼備の女性だったのですね。
そんな彼女へ、上流貴族の御曹司・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)から熱烈な恋歌が届き、やがて結婚。翌年には、息子(道綱)が誕生します。周りからは「幸せをつかんだ女性」に見えたことでしょう。
──はい、そんなセレブな人と結婚したら、幸せですよね。うらやましいです。
果たして、本当に幸福だったのでしょうか。
その手掛かりは『蜻蛉(かげろう)日記』にあります。
道綱母は、兼家との20年間にわたる結婚生活の現実を書き残していたのです。
しかも、日記の序文には、「高い身分の人と結婚した女は、どんな暮らしをしているのだろうと尋ねる人があったら、その答えの一例にしてほしい」と記しています。
──今でも週刊誌の記事になりそうな書き出しに、引きつけられます。
そうですね。
『百人一首』に選ばれたこの歌は、『蜻蛉日記』の中に出てきます。
どんな場面で詠んだ歌なのでしょうか。その部分を意訳してみましょう。
──よろしくお願いします。
(意訳)
妊娠して普通の体ではなくなって、春、夏とつらい日々を送っていましたが、8月の末頃に出産することができました。その前後の、あの人の心遣いは、さすがに温かいものでした。
ところが9月になって、あの人が家を出ていった時に、何気なく文箱を開けると、他の女に贈ろうとしていた手紙が入っていたのです。私は、驚くとともに、あきれてしまいました。
そのうちに、夕方になると、「宮中に大事な用事ができた」と言って家を出ていくので、不審に思って、人に後をつけさせました。すると、「町の中の、ある家にお入りになりました」と報告してくるではありませんか。全く、やりきれない思いになってしまいました。
夜明け前に、門をたたく音がしました。あの人が帰ってきたのです。でも、気が進まず、そのまま門を開けないでいると、例の女の家へ行ってしまいました。
私は、このまま黙って済ますわけにはいかないので、
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る
と歌を書き、枯れて色の変わった菊に挿して、あの人へ届けさせました。
すると、「戸を開けてくれるまで待とうと思っていたのだが、急な使いが来たので、引き返したのだよ。あなたの言われることはまことに、もっともなことだと思う」と返事がありました。
その後、何もなかったように平然として帰ってくる無神経さに、ますますやりきれない思いが募っていくのです。
──今も、そんな話聞きます……。人間って変わらないのですね。
道綱母は、『蜻蛉日記』上巻を、こう結んでいます。
「このように年月は過ぎていき、思いどおりにならないことを嘆き続けています。心細い身の上を思うと、この日記は、まるで蜻蛉のような、儚(はかな)い女の半生の記録といっていいでしょう」
(『月刊なぜ生きる』令和4年5月号「古典を楽しむ」 意訳・解説 木村耕一 イラスト 黒澤葵 より)
──ありがとうございました。考えさせられます。平安時代の貴族といったら、華やかで、何の悩みもないように思いましたが、間違いでした。今、生きている私たちにも通じる悩みや心細さ、虚しさが詠まれていたのですね。