古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
今年の1月9日からスタートした、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、12月18日に最終回を迎えます。
今まであまり描かれなかった鎌倉時代でしたが、ドラマを見て身近になりました。
さて、今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、初代鎌倉殿(源頼朝・みなもとのよりとも)の弟・義経(よしつね)の旧跡がある「腰越(こしごえ)」へ。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
悲劇のヒーロー・義経
──源義経といえば、悲劇のヒーローで有名です。
そうですね、命懸けで頑張ったのに認められず、理不尽な仕打ちを受けて殺された武将……という印象が強いと思います。同情し、悲しむだけでは、涙しか残りません。
なぜ、悲劇が起きたのか。
今回は、義経の「腰越状」を、『歎異抄』から読み解いてみましょう。
──それは、知りたいです。よろしくお願いします。
義経が「腰越状」を書いた場所は、神奈川県鎌倉市の満福寺(まんぷくじ)だといわれています。
満福寺は、前回でも訪問しましたが、江ノ島電鉄(江ノ電)の腰越駅から歩いて5分もかからない所にあります。
寺の裏手の高台に登ると、眼下には青い海が広がっていました。相模湾(さがみわん)に浮かぶ江の島から片瀬海岸までを一望することができます。
──景色のいい所ですね。
はい。義経と弁慶(べんけい)たちも、ここから海を眺めていたに違いありません。しかし、晴れ晴れした心境ではありませんでした。かなり、いらだっていたはずです。
──どうしてですか?
義経は、鎌倉殿である兄・源頼朝の命令に従って平家と戦い、華々しい成果を上げました。平家を滅ぼしたのです。
「兄に報告して、褒めてもらいたい」という思いで、鎌倉へ向かっていました。しかも、敵の総大将・平宗盛(たいらのむねもり)を生け捕りにし、捕虜として護送してきたのですから、得意満面だったはずです。
──はい、頼朝が喜んでくれるはずですよね。
ところが鎌倉殿(頼朝)は義経に、
「鎌倉に入ってはならない。捕虜の身柄を引き渡したら、腰越(鎌倉の西の端)まで戻って待機するように」
と命じたのでした。
──頼朝の態度が、急に変わっています。何があったのでしょうか。
鎌倉殿の心を変えたもの
鎌倉殿(頼朝)の心境を、『平家物語』から探ってみましょう。次のように書かれています。
平家が滅びると、早くも国の中が鎮まり、人の往来も容易になりました。都も平和になったので、
「これはすべて義経の功績だ。義経ほど偉い人はいない。鎌倉の頼朝に何ができたというのか。天下は、義経の思うままにさせたいものだ」
と、人々が言うようになりました。
鎌倉の頼朝が、このうわさを聞いて、気持ちがいいはずがありません。怒って、次のように言ったといいます。
「これは何としたことだ。私が戦略を立てて、軍勢を派遣したからこそ、平家はたやすく滅びたのだ。義経だけでは、どうして世を鎮めることができよう。人々が、こんなことを言うので、義経はおごって、早くも天下をわが物にしようとしているのだろう」
鎌倉殿(頼朝)は、弟・義経の人気が高まり、英雄としてもてはやされていることに、ねたみを抱いたようです。
頼朝は、鎌倉を中心とした新しい政治体制を作ろうとしていました。しかし、義経とは考え方が合わないことが分かってきたのです。自分の理想を実現させるためには、義経の存在がじゃまになってきたのです。
うらみが原因の悪口か?
鎌倉殿(頼朝)に信頼されていた武将・梶原景時(かじわらかげとき)は、義経とともに、平家を追討する戦いに参加していました。
義経は、無鉄砲な戦い方をしようとします。景時は、堅実に戦うタイプです。そのため、二人は何度も戦場で意見が対立し、口論になることがありました。
景時は、義経に恥をかかされたこともありますので、義経をうらんでいたのかもしれません。
『平家物語』には、次のように書かれています。
梶原景時は、義経よりも一足先に鎌倉へ戻り、頼朝に、次のように報告しました。
「日本国は、今や、残るところなく鎌倉殿(頼朝)に従っています。ただし、御弟の義経殿が、最後の敵になると見受けられます。その訳は、一事をもって万事を察せられます……。例えば、『一谷(いちのたに)の合戦では、自分が山の上から奇襲しなかったら、源氏の勝利はなかったのだ』と自慢して、立場不相応なことをやりだしています」
鎌倉殿(頼朝)が、深くうなずいて、
「今日、義経が、平家の捕虜を連れて鎌倉に入るはずだ。皆、用心せよ」
と言ったので、警備に、数千騎の軍勢が集まってきました。
金洗沢(かねあらいざわ)に関所を設けて警備し、平家の捕虜だけを受け取って、義経を腰越に追い返したのです。
「腰越状」で何を訴えたか
このような状況なので、義経が、どれだけ詫び状や誓約書を鎌倉殿(頼朝)へ送っても、すべて無視されました。
──それは、義経はつらいですね。
義経は、直接、訴えても聞いてもらえないならば、鎌倉殿(頼朝)の側近に力を借りようと考えます。
自らの潔白と、鎌倉殿(頼朝)に忠誠を誓う心情を、泣く泣く書状に記し、大江広元(おおえのひろもと)へ送ったのでした。これが「腰越状」です。
『平家物語』に、「腰越状」の全文が掲載されていますので、意訳してみましょう。
源義経、恐れながら申し上げます。
私は、鎌倉殿の代官に選ばれ、朝敵を攻め滅ぼし、父祖が受けた恥をすすぎました。その功績は、褒めたたえられて当然だと思います。ところが、恐るべき悪口、事実無根の告げ口によって、莫大な功績が黙殺されてしまいました。
私は、犯した覚えのない罪によって処罰を受けました。とてもむなしく、血の涙を流して、嘆いております。
告発された私の言動が、事実か、うそかを確かめられることもありません。
私は、鎌倉の中へ入れさせてもらえませんので、鎌倉殿(頼朝)に自分の本心を述べることもできず、腰越で、むなしい日々を過ごしております。
こういう時に、鎌倉殿(頼朝)のお顔を拝することができないのは、もはや、兄弟肉親の縁が切れたということでしょうか。あるいは、私が過去世に犯した悪い行為の報いが、今、現れているのでしょうか。まことに悲しいことです。
このようなことを申し上げると愚痴になりますが、私が生まれてから間もなくして父が亡くなりました。私は、母のふところに抱かれて大和国(やまとのくに。現在の奈良県)へ逃げて以来、まだ一日も心安らかに過ごしたことはありません。平家の監視から逃れるために、辺鄙(へんぴ)な土地や、都から遠く離れた国に隠れ住み、何とか命を保ってきました。
しかし、ついに機が熟し、鎌倉殿(頼朝)から平家の一族を追討するように命じられ、上京いたしました。
その戦の手始めに、都を占拠していた木曽義仲(きそよしなか)を討伐した後、平家を攻め滅ぼすために西へ進みました。
ある時は、岩石の多い山の急斜面を駿馬で駆け下りて、命を捨てることを顧みませんでした。
ある時は、嵐の吹き荒れる海へ船を出し、屍(しかばね)を海底の大魚の餌食とすることも覚悟して戦いました。
そればかりか、鎧(よろい)・兜(かぶと)を枕として野宿し、弓矢をもって戦場を駆け巡ってきた目的は、亡き父祖の無念を晴らし、平家打倒の願いを遂げること以外にはありませんでした。
しかしながら、今、私は、とても深い悲しみに沈んでいます。
私には全く野心がないことを証明しようと、鎌倉殿(頼朝)へ何度も誓約書を送りましたが、まだお許しがありません。
もう頼るところは、貴殿(大江広元)しかありません。どうか機会を見つけて、鎌倉殿(頼朝)のお耳に、私の心をお伝えください。義経、恐れながら謹んで申し上げます。
元暦二年六月五日 源義経
進上因幡守(大江広元)殿へ
義経から、この腰越状を託された大江広元は、鎌倉幕府の首脳として活躍した人物です。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場します。
その後、大江広元が、どのように行動したのかは分かりません。
鎌倉殿(頼朝)は、弟・義経を許しませんでした。
弁慶と逃避行を続ける義経は、奥州(おうしゅう。現在の岩手県)で殺害されます。31歳の若さでした。
人生に悲劇はなくならない
義経の「腰越状」を読んで感じるのは、
「人間とは、勝手なものだな」
ということです。
義経が、兄・頼朝を慕って、平泉(ひらいずみ。岩手県南西部)から駆けつけてきたのは、わずか4年前です。頼朝は、喜びの涙を流しながら弟・義経の手を取って、
「力を合わせて平家を討ち果たそう」
と誓いました。
ところが、弟が平家を討ち破り、英雄として人気が高まると、態度が変わります。面白くないのです。怒りや、ねたみの心が、むんむんとわいてくるのを、どうしようもなかったと思います。
さらに、義経が自分が目指す方針に反することをやりだすと、肉親であっても、じゃま者になり、殺してしまうのです。
義経は、「腰越状」の中で、梶原景時が鎌倉殿(頼朝)に報告した内容は、事実無根の悪口だと訴えています。告げ口によって苦しんでいる自分を、助けてくださいと、叫んでいるのです。
義経と景時は、とても仲が悪く、戦場でも意見が対立し、斬り合いになりそうになったこともあります。
好き、嫌いの感情から、人間関係の苦しみが生まれるのは、よくあることです。
このような、欲、怒り、ねたみなどの心を、仏教では「煩悩(ぼんのう)」といいます。
煩悩には、人間の理性では抑えることができない、ものすごい力があります。「腰越状」をめぐる悲劇は、鎌倉殿、景時、義経、それぞれの煩悩が激突して起きた結果だといえるでしょう。
人生に苦しみがなくならないのは、煩悩にまみれた私たちが、いつ何が起きるか分からない無常の世に生きているからだと、『歎異抄』に記されています。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわご
と・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)
(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
──木村耕一さん、ありがとうございました。昔も今も、人生に苦しみがなくらないのは、「煩悩にまみれた私たちが、いつ何が起きるか分からない無常の世に生きているから」なんですね。『歎異抄』は深いです。次回もお楽しみに。
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