古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
1月9日は「成人の日」でした。東京は青空が広がり、晴れ着姿が一段と映えましたね。今年は「成人式」ではなく「20歳のつどい」とした自治体が多かったそうです。そういえば昨年、成人年齢が18歳に引き下げられたのですね。
18歳で「成人」というのは少し早く感じますが、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した3代将軍・実朝(さねとも)は、数え年12歳で元服していました。今でいう小学5年生くらいで「成人」とは、大変だったと思います。
さて、今回の『歎異抄』の理解を深める旅も、実朝の母・北条政子(ほうじょうまさこ)が活躍した神奈川県鎌倉市を訪れます。意外にも、北条政子は、京都の法然上人(ほうねんしょうにん)に何度も手紙を書いていたようです。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
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北条政子の手紙
──鎌倉幕府を支えた北条政子は、京都の法然上人に何度も手紙を書いていたそうですね。
はい、彼女の問いかけに、優しく答えられる法然上人の返書が残っています。
──政子というと、「尼将軍(あましょうぐん)」として、勇猛な武士たちに毅然と臨んだ女性というイメージですので、意外な感じがしました。
そうですね。彼女は、鎌倉から京都の法然上人へ手紙を出して、何を尋ねていたのでしょうか。
『歎異抄』とも深く関係することなので、北条政子の生涯を追ってみることにしました。
──よろしくお願いします。
政子は、伊豆(現在の静岡県伊豆地方)の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。
まず、結婚から波乱に満ちていました。親の反対を押し切って、流罪人の源頼朝(みなもとのよりとも)との恋を、命懸けで貫いたのです。
──それが、日本の歴史を大きく変えることにつながったのですね。
はい。でも当時の政子には予想もできなかったでしょう。
頼朝は、政子の父という後ろ盾を得たおかげで、東国の武士を従え、その棟梁の座に就くことができました。
──政子は、東国一の武将の妻になったのですね。
はい、政子は、とても大きな喜びを感じていたはずです。
その後、頼朝は、強大な権力を誇っていた平家を倒すことに成功します。
頼朝は、鎌倉に幕府を開き、それまで貴族を中心に行われていた日本の政治を、武家中心へと大改革したのでした。
政子は、一躍、将軍の妻となり「御台所(みだいどころ)」と呼ばれるようになったのです。
──大河ドラマでも「御台所、御台所」と、御家人(ごけにん)から慕われていましたね。
では、頼朝と政子の住まいはどこにあったのでしょうか。
鎌倉幕府の旧跡
JR鎌倉駅の東口を出ると、若宮大路(わかみやおおじ)が南北に走っています。
この大通りは、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に向かって延びています。
源氏は先祖以来、八幡宮を守護神としていました。そのため頼朝は、自分が源氏の正当な跡継ぎだと強調するシンボルとして、広大な八幡宮を建てたのです。東国武士たちの心を引きつけるためでした。そして、その八幡宮の東側に、武家造りの堂々とした屋敷を構え、鎌倉幕府の拠点としたのです。
かつて幕府があった場所を訪ねてみましょう。
駅前の若宮大路から金沢街道(かなざわかいどう)へ入り、15分ほど進むと、「桜道」と名づけられた通りに出ました。
取材時は4月初めだったので、その名のとおり桜が満開でした。
通りには、赤くて丸い郵便ポストが立っています。懐かしいなと思ってポストの前を通り過ぎると、清泉小学校の校舎が見えてきました。
この小学校の角に、ひっそりと一つの石碑がありました。「大蔵幕府旧蹟(おおくらばくふきゅうせき)」と刻まれています。
──うっかりしていると見逃しそうですね。
鎌倉幕府の拠点は2回移転していますが、頼朝から3代将軍までの間は、この小学校の辺りにあったのです。地名をとって「大倉幕府跡」と呼ばれています。
──では、この辺りに頼朝と政子が住んでいたのですね。
頼朝が鎌倉へ入ると、将軍直属の家臣(御家人)たちも、この近くに争って屋敷を建てました。そのため鎌倉は、たちまち東国一の都市に発展したといわれています。
しかし、800年以上たった現在となっては、その面影は、どこにも残っていませんでした。
4児の母から「尼将軍」へ
頼朝が征夷大将軍となったのは、政子が36歳の時です。
──この頃が、彼女の人生において最も幸せな時期だったのではないでしょうか。
ところがその後、坂を転げ落ちるように苦難が続きます。
政子には4人の子どもがありました。長女の病が癒えるように八方手を尽くしていましたが、20歳の若さで亡くなってしまいます。政子の悲しみは激しく、娘の跡を追って死のうとしますが、夫に止められ、思い留まりました。
その2年後には、頼りにしていた夫・頼朝が急死したのです。政子43歳の時でした。
今度こそ自分も死のうと思い詰めますが、父を亡くして動揺している子どもたちを見捨てることはできません。政子は、毅然と生きる決意をします。
それでも無常は、情け容赦なく襲いかかります。
夫の死から2カ月もたたないうちに、15歳くらいになっていた次女が高熱を発して危篤に陥り、間もなく亡くなったのです。
夫の跡を継いで、長男の頼家(よりいえ)が第2代将軍の座に就きました。
政子は頼家に、「政治に関することは、13人の御家人に相談すること。決して独断で決めないように」と申し渡します。
ところが頼家は、母の言うことを聞きません。政子は何度も長男を叱り、戒めています。やがて大きな騒動に発展し、長男は23歳で殺害されてしまうのです。
最後の望みを託した次男・実朝が第3代将軍職に就きます。しかし、よりによって次男は、政子の孫の手によって暗殺されてしまうのです。28歳の死でした。
なぜ、親族の間で殺し合わなければならないのか……。政子の苦悩は深まるばかりです。
この時、政子は63歳。夫と4人の子どもと死別し、ただ独り残されてしまいました。
後は自分がやるしかありません。夫が築いた鎌倉幕府を守るために、政治の表舞台へ出て難局を乗り越えていきます。「尼将軍」と呼ばれるようになったのでした。
法然上人の元へ
「鎌倉の北条政子は、法然上人に深く帰依していました」と、国宝『法然上人絵伝』に書かれています。
──政子は、京都の法然上人とどうして知り合えたのでしょうか。
政子は39歳の時に、鎌倉から京都へ家族で旅行し、4カ月近くも滞在しています。その頃に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願を説かれる法然上人のご法話をお聞きしたのでしょう。鎌倉へ戻ってからも、政子は京都の法然上人へ、何度も手紙を書いて教えを求めていたようです。
法然上人は、政子への返書の中で、次のように教えられています。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の功徳についてお尋ねですが、その功徳はあまりにも広大なので、お釈迦さまも説き尽くすことができないとおっしゃっています。阿弥陀仏は、すべての人を救うために本願を建てられました。知恵があるか、ないか。善人か、悪人か。身分が高いか、低いか。男か、女か。そのような差別は全くありません。南無阿弥陀仏には、すべての人を、無上の幸福にする無限の力があるのです」
法然上人から、南無阿弥陀仏の功徳を教えていただいた政子は、どれだけ、生きる力がわいたことでしょうか。
──苦難が続いた政子でしたが、法然上人から仏法をお聞きできて、よかったですね。
鎌倉の御家人の中には、熊谷直実(くまがいなおざね)、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)など、法然上人のお弟子になった武将が何人もいます。
また、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てきた武将、佐々木盛綱(ささきもりつな)、高綱(たかつな)の兄弟は、後に親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお弟子になっています。
──政子だけではなく、武将たちも、仏法を聞いていたのですね。
激動の世の中で、北条政子や鎌倉の武将たちが仏教に引かれ、教えを聞くようになった理由は、次の『歎異抄』の言葉の中に表れていると思います。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)
(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
──木村耕一さん、ありがとうございました。変わりどおしの世の中に、変わらない『歎異抄』の言葉が、時代を超えて響いてくるようです。次回もお楽しみに。