『土佐日記』の紀貫之、京に帰る
2月16日は、土佐国(とさのくに・現在の高知県)を出発した紀貫之(きのつらゆき)が、京に着いた日なのだそうです。
都へ帰る道中の55日間のエピソードを日記風に書いた随筆が、有名な『土佐日記』です。
紀貫之は、比叡山(ひえいざん)から眺める琵琶湖(びわこ)の風景をこよなく愛し、自分が亡くなったら、見晴らしのいい所に葬ってほしいと言っていたそうです。
千年たった今でも墓が残っていました。木村耕一さん、よろしくお願いします。
『小倉百人一首』の紀貫之の歌
『土佐日記』の作者・紀貫之は、平安時代の有名な歌人です。『古今和歌集』の選者の一人であり、『小倉百人一首』にも、次のような歌が収められています。
人はいさ
心も知らず
ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)に匂(にお)いける
(意訳)
人の心は変わりやすいですからね。
あなたは昔のまま、私のことを思ってくださっていますか。懐かしいこの地の花は、昔のままの香りで美しく咲いているではありませんか。
──変わりやすい人の心と、変わらないふるさとの対比が、心に残ります。
そうですね、この紀貫之の墓が、比叡山・大乗院(だいじょういん)の近くの山の中腹にあることが分かりました。
──日本の文学の発展に大きな影響を与えた紀貫之が、なぜ、比叡山に墓を作ったのでしょうか。
彼は、比叡山から眺める琵琶湖の風景を、こよなく愛していました。自分が亡くなったら、見晴らしのいい所に葬ってほしいと言っていたそうです。
──先の歌に「ふるさと」が出てきましたが、紀貫之は、見晴らしのいい比叡山を最後の「ふるさと」にしたかったのでしょうか。
今でも墓が残っています。訪ねてみることにしました。
──よろしくお願いします。
景色のいい所に墓を作った紀貫之
坂本ケーブルの延暦寺駅(えんりゃくじえき)に来ました。
駅舎の前には展望台があり、眼下には、美しい琵琶湖が広がっています。
「絶景スポット」といってもいいでしょう。紀貫之が愛した景色です。
延暦寺駅でケーブルカーに乗って、次の「もたて山駅」で降ります。
ホームには、
「土佐日記作者
土佐の国司 紀貫之の墳墓所在地」
と記した看板が立っていました。
起伏のある細い山道を500メートルほど歩きます。
「本当に、この道でいいのだろうか」と不安になるほど、静かで、寂しい道でした。
やがて、少し開けた所に出たと思うと、
「木工頭紀貫之朝臣之墳」
と刻まれた小さな石柱が立っていました。「木工頭(もくのかみ)」とは、紀貫之の晩年の職名を表しています。
墓の周りには高知県南国市から墓参りに訪れた一行の記念碑が、いくつもありました。紀貫之は、土佐国の国司を務めたことがあるので、千年以上たった今でも、多くの人から慕われているのでしょう。
紀貫之は、
「人間、死んだら墓の中に入るのだろう。それなら、景色のいい場所に墓を作りたい」
と考えたのだと思います。
もし仮に、死んだら墓の中へ入るとするならば、夏は蒸し暑く、冬は凍(い)てつくほど寒い山の中で、じっとしていることになります。それは、かなりつらいのではないでしょうか。
紀貫之のような優秀な人でも、「死んだら、どうなるのか」と、いくら考えても分からなかったのです。せめて、景色のいい所に墓でも作らないと、死への不安を、どうすることもできなかったのでしょう。
本当に、盛大な葬式をして、いい所に墓を作れば、「死んだら、どうなるのか」の大問題が解決できるのでしょうか。
誰もが一度は抱くこの疑問について、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と弟子・唯円(ゆいえん)の対話が記されている古典が『歎異抄(たんにしょう)』なのです。
(『月刊なぜ生きる』「歎異抄の旅」より)