古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
やりました! 日本代表、WBC優勝! おめでとうございます。
それにしても、ここまでの侍ジャパンの激戦は、素晴らしい試合ばかりでした。
中でも、準決勝9回ウラでの逆転勝利は、最高でしたね。
試合後に語った大谷翔平選手の「絶対に諦めない気持ち」に感動しました。私も「絶対に諦めない気持ち」を大切にしたいなと思います。
さて、今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、『平家物語』で有名な源氏の武将・木曽義仲(きそよしなか)の遺児が、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と出会った滋賀県の海津港(かいづこう)を訪れます。父・義仲を殺した者たちを恨み、報復しようとしていた人生が、逆転ホームランのような出会いによって、どのように変わったのでしょうか。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
──木村さん、『歎異抄』には、当時の権力者の無法な弾圧で、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流刑に遭われたと書かれています。京都から、どのように旅をされたのでしょうか。
はい、親鸞聖人は、妻と幼子を都に残し、流刑地・越後へ向かわれました。
近江国(滋賀県)へ入ると、琵琶湖(びわこ)を船で北上されました。
──その船は、どの港に着いたのでしょうか。
おそらく湖北の海津港ではないかといわれています。
現在の高島市マキノ町海津です。
「海津」の地名は、『平家物語』『源平盛衰記』などにも出てきます。古くから北陸と都を結ぶ重要な港であり、宿場町として栄えていた所です。
──現在は、どうなっているでしょうか。
『平家物語』に出てくる「海津港」は、どこにあった?
まず、高島市のJRマキノ駅まで車で行ってみましょう。
──よろしくお願いします。
大津から、琵琶湖の西側を北上します。バイパスが整備されていますので、車での移動は、とてもスムーズでした。
途中、右手に見えてくる湖の景色はとても美しく魅力的です。水面の色が、所によって、濃い群青になったり、深い緑になったり、日光を反射してキラキラ輝いたりして変化していくのです。
──さすがは、日本一の大きさを誇る琵琶湖ですね。
大津からJRマキノ駅までは、車で約1時間半で着きました。
駅の正面から琵琶湖へ向かって、真っすぐに道路が延びています。
車を止めて歩いてみましょう。
10分ほどで大きな門のような建物が見えてきました。
「湖のテラス」と名づけられています。
この門をくぐると、澄んだ水をたたえた湖が目の前に広がっていました。
ベンチがいくつも置いてあります。どうやら水泳やキャンプを楽しめる場所になっているようです。
──すてきな所ですね。親鸞聖人が上陸されたのは、ここでしょうか。
そうですね、地元の人に、
「親鸞聖人が上陸された海津港は、どこにあったのでしょうか」
と尋ねると、
「ここじゃないよ」の返事。
「海津は、もっと向こうだ。この道をずっと行くと、道路脇に『旧海津港跡』という案内板が立っているから」
と教えてもらいました。
──そうでしたか。
しかし、なかなか見つかりません。
15分ほど歩くと、ようやく一般の住宅の前に、「旧海津港跡」という案内板がありました。
要約すると、次のように書かれています。
◆ ◆
海津港は平安時代の末期から発展し始め、豊臣秀吉の時代には大津に次ぐ大きな港として栄えた。
明治3年には、大津と海津の間に蒸気船の航路が開かれた。その桟橋は、現在、杭のみが残っている。
◆ ◆
この案内板が立っている住宅と住宅の間には細い路地があり、琵琶湖へつながっています。
浜辺に出てみると、水面に黒い杭のようなものが突き出ている所がありました。岸から沖へ向かって並んでいます。
これが案内板に書かれていた桟橋の跡なのでしょう。
──面白いですね。
明治時代は、ここから蒸気船が発着するにぎやかな港だったのです。
平安時代の末期から、交通の要衝として発展してきた港ですから、越後へ向かわれる親鸞聖人一行を乗せた船も、この辺りに着いたに違いありません。
──それは、感慨深いです。
海津に逃れていた木曽義仲の側室・山吹御前
海津港に上陸されたあとの親鸞聖人の足跡をたどってみましょう。
──はい、よろしくお願いします。
流罪地・越後へ向かう道中でありながら、親鸞聖人は、行く先々で、出会った人たちに法話をされています。
この海津では、『平家物語』で有名な源氏の武将・木曽義仲の側室、山吹御前(やまぶきごぜん)との出会いがありました。
──木曽義仲は、朝日将軍と言われるほど、ものすごい勢いで権力を手にしましたが、その後、義経(よしつね)に敗れてしまいました。その側室が、親鸞聖人に出会ったとは、不思議なドラマを感じますね。
はい。その経緯は、願慶寺(がんけいじ)の縁起(由来)に記されています。
木曽(源)義仲が近江の粟津(あわづ)で討ち死にした時、山吹御前は身重の体でした。義仲の子を宿しているのですから、敵に見つかったら殺されてしまいます。
彼女は、湖北の海津の辺りまで逃れてきました。そこで近くの有力者に助けられ、無事に男の子を出産することができたのです。
それから20数年後に親鸞聖人が、琵琶湖を船で渡り海津港へ上陸されたのです。
山吹御前と成人した息子は、義仲を殺した者たちを恨み、報復しようとしていました。
しかし、親鸞聖人のご法話をお聞きし、報復することを諦めたのです。
──どうして急にそんなに変わったのでしょうか。
山吹御前と義仲の息子は、親鸞聖人のご法話をお聞きして、世の儚(はかな)さを知らされたのです。
父・義仲を殺した義経は、その後、頼朝(よりとも)から追放され、殺害されてしまいました。
頼朝は鎌倉幕府を開きましたが、すでに亡くなっています。
では、義仲の息子は、いったい、誰に報復するつもりだったのか……。
北条氏(ほうじょうし)が率いる鎌倉幕府なのか……。
たとえ積年の恨みを晴らすことができたとしても、今度は自分が恨まれる立場になり、果てしなく苦しみが続くでしょう。
義仲の生きざまを思い起こせば、儚い世の中であることが、しみじみと知らされたのです。
『歎異抄』には、親鸞聖人が、常におっしゃっていた言葉が記されています。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわご
と・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)
(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
*火宅……火のついた家のこと *煩悩……欲や怒り、ねたみ、そねみの心
山吹御前も、義仲の息子も、親鸞聖人からこのように教えていただいたのではないでしょうか。
そして、「そらごと・たわごと」ばかりの世にあって、変わらない幸せを求めて、仏法を聞くようになったのだと思います。
親鸞聖人の御法話をお聞きした山吹御前と義仲の息子は、二人そろってお弟子になったと伝えられています。母と子が草庵を結んで、親鸞聖人の教えを伝えたのが願慶寺の始まりでした。
願慶寺は、旧海津港跡から歩いて10分ほどの所にあります。寺の門を入ると、鐘撞(かねつ)き堂のそばに紅梅の大木があり、石碑に、
「この紅梅は木曽義仲の室山吹御前の遺木なり」
と刻まれていました。
山吹御前が出家する時に切った約1メートルの髪も残されているようです。
──木村耕一さん、ありがとうございました。「そらごと・たわごと」ばかりの世と知らされると、今、求めようとしていることは意味があるのか、考えずにおれなくなりますね。『歎異抄』のメッセージは深いと思いました。次回もお楽しみに。
意訳で楽しむ古典シリーズ 記事一覧はこちら