古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
各地で早くも夏日を記録するほど、いい天気になりました。どこかへ出かけたくなりますね。
先日「ゴルフへ行く途中に、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の旧跡の前を通ったよ」と、姉からLINEが入りました。
へえ~、身近な所に、旧跡があるものです。
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、琵琶湖北岸から北陸路へと向かいます。どんな旧跡があるのでしょうか。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
──木村さん、前回は『平家物語』で有名な源氏の武将・木曽義仲(きそよしなか)の側室、山吹御前(やまぶきごぜん)と、親鸞聖人との出会いをお聞きしました。『平家物語』に出てくる「海津(かいづ)」から、親鸞聖人はどのように歩まれたのでしょうか。
はい、琵琶湖を北上された親鸞聖人は、海津港(滋賀県高島市マキノ町)に上陸されたあと、北陸路へと進まれました。
800年以上も前のことですが、親鸞聖人が歩まれた道筋には、多くの旧跡が残されています。
まず、海津港から5キロメートルほどの所にある「念仏池」(マキノ町上開田)を見に行きましょう。
「念仏池」は、どこに?
親鸞聖人が街道を歩いていかれると、杉の大木のほとりに池があり、清水がこんこんとわき出していたそうです。
その水を、親鸞聖人がすくって飲まれ、近くの石に腰掛けて、旅の疲れを癒やされたと伝わっています。
地元の人たちが、その池を「念仏池」、そばの石を「親鸞聖人腰掛け石」と呼び、流刑のご苦労を語り伝えてきたのです。
──語り伝えられているのは、すてきなことですね。
車で上開田(かみかいで)の集落へ入り、地図を頼りに「念仏池」を探しましたが、なかなか見つかりません。
たまたま軽トラックが通りかかったので運転手さんに、
「こんにちは。マキノ町の観光案内には、この近くに念仏池があると書いてあるのですが、どこでしょうか」
と尋ねると、
「はてな、念仏池……。この村の歴史を最も詳しく知っているのが大西巖さんなんですよ。家はあそこだから、行って聞いてみてください」と言って、大西さんの家まで案内してくださいました。
大西巌さんは88歳、とてもお元気な方です。
──大西さんと、どんなことを話されたのでしょうか。
(木村)「突然、お邪魔して申し訳ありません」
(大西)「どこから来られましたか」
(木村)「東京からです」
(大西)「それは、わざわざ大変ですね」
(木村)「有名な古典『歎異抄』には、親鸞聖人が無実の罪で、越後へ流刑に遭われたと書かれています。海津港から北陸へ向かわれる時に、この近くの念仏池で休憩されたと聞きました。念仏池が、どこにあるか教えていただけませんか」
(大西)「念仏池は、アカヤの泉とも呼ばれています。この村の上水道として大切な水源なのです。ゴミや動物が入らないように、今から4、50年前に工事をして、池に囲いを作りました。そばにあった親鸞聖人腰掛け石も、今はなくなっていますね」
(木村)「そうですか、残念ですね。清らかな水がわく様子を見ることは、もうできないのですね」
(大西)「工事をする前は、わしらが、池のそばで念仏を称えると、泡がぶくぶくと出てきたものですよ」
(木村)「それくらい、豊富な水が、次々にわいているのですね。親鸞聖人が流刑に遭われ、ここを通られたご苦労が、昭和の時代までは、ずっと語り継がれてきたのでしょうか」
(大西)「そのとおりです。現在は、海津から敦賀(つるが)へ向けて広い国道ができていますが、昔の街道は、ここを通っていたのです。かなり厳しい山道でしたよ。今も、その跡は残っていますけど、もう通れないでしょうね」
大西さんに教えてもらったとおりに、山のふもとへ近づくと、細い水路から勢いよく水の流れ落ちる音が響いてきます。
水路に沿って登っていくと、金属のフェンスで囲まれた小屋がありました。赤茶色にさびた表示板には、確かに「念仏池」と記されています。
小屋の背後にそびえる大木は、落雷のせいなのか、大きく裂けていました。
こうやって少しずつ旧跡が消えていくのかと思うと、寂しさを感じずにおれませんでした。
親鸞聖人有乳山旧跡〜『義経記』にも出てくる難路
念仏池を過ぎると、いよいよ険しい山越えになります。
──なんだか、緊張してきました。
近江(おうみ。滋賀)と越前(えちぜん。福井)の境にある峠は、有乳山(あらちやま)、または愛発山(あらちやま)と呼ばれていました。
源平の合戦で大活躍した源義経(みなもとのよしつね)が、兄の頼朝(よりとも)と仲が悪くなり、奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)へ逃げていく時も、この山道を通っています。親鸞聖人の流刑より約20年前のことでした。
──同じ道を通っていたのですね。
義経が有乳山を越えた時の様子が『義経記(ぎけいき)』に記されていますので意訳してみましょう。
◆ ◆
義経は海津港を出発して近江と越前の境にある山へさしかかった。
この山道は、あちこちで木が倒れているうえ、鋭くとがった岩石がむき出しになっている。しかも、枕を並べるように木の根が山道を這(は)っているので滑りやすい。ちょっとでも踏み外すと、左右の足から、真っ赤な血が流れ出てしまう。この山の岩石で、血に染まっていない所がないくらいだ。
◆ ◆
戦場を駆け巡った武将でさえ驚くほどの難路だったことが分かります。この山道で傷つき、足から血を流す旅人が多かったので、いつしか「有乳山」は、「荒血山(あらちやま)」と呼ばれるようになったのです。
──戦国武将でさえ驚く難路とは、想像もできませんね。「荒血山」に、実感がこもっていますね。親鸞聖人は、無事に、この難所を越えられたのでしょうか。
その答えは、敦賀へ向かう国道161号線沿いの石碑に記されていました。
車で県境を越えると、間もなく左手に見えてくる石碑です。
中央に「親鸞聖人有乳山旧跡」とあり、次のような、親鸞聖人のお歌が刻まれていました。
越路(こしじ)なる あらちの山に 行きつかれ
足も血しおに 染むるばかりぞ
有乳山で、親鸞聖人は石につまずき、つま先から血を流されたのです。痛みが激しかったので、炭焼き小屋に立ち寄り、一夜の宿をこわれました。
炭焼きの主人は、懇ろに聖人をもてなし、「小豆の塩粉」を差し上げたといいます。親鸞聖人は、
「すべての人を、必ず生きているうちに無上の幸福に救い、死後は極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)させよう」
と約束された、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を説かれました。すると、炭焼きの主人は「こんな話は聞いたことがない」と喜び、村人を集め、聴聞(ちょうもん)させていただいたのです。
「もっと聞かせていただきたい」と別れを惜しむ村人たちに、親鸞聖人が形見として残されたのが石碑に刻まれている歌だと伝えられています。
──そんなエピソードがあったのですね。改めて石碑を見ますと、親鸞聖人とのご縁を大切にした人たちの思いが知らされてきました。
無実の罪で流刑に遭われたことを嘆かれるのではなく、新たな土地の人々に、弥陀の本願を伝えるチャンスだと、全力で突き進まれる親鸞聖人の姿が、ここにも残されています。
──木村耕一さん、ありがとうございました。親鸞聖人の力強い歩みに元気をいただきました。次回もお楽しみに。
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