今回紹介するのは花散里(はなちるさと)です。
穏やかで優しく、光源氏は癒しを求めて彼女をたまに訪ねます。
物語の中ではあまり目立たないものの、苦しい時に彼女から温かい対応を受け、慰められている人が何人もありました。
また、彼女は裁縫や染色が上手で、光源氏からはよく装束の準備を依頼されます。
自分の子どもはいませんが、光源氏の息子・夕霧をはじめ、何人もの子どもたちのお世話をした女性です。
家庭的なお母さんというイメージがぴったりの花散里。
他の登場人物たちとのかかわりを通して、彼女の人柄を見ていきたいと思います。
光源氏とのどっちつかずな関係
花散里の姉は、光源氏の父・桐壺帝の女御でした。
そんな縁もあり、花散里と光源氏は若い頃に宮中で逢瀬をかわす恋人同士でした。
しかし、彼はなかなか自分の元へ訪ねてきません。
花散里は、源氏が自分を忘れてしまうわけでもなく、正式に妻にするわけでもない、どっちつかずな状態にとても悩んでいます。
しかし彼がたまに自分の元を訪れると、嬉しい気持ちの方が大きく、恨めしく思っていたことも忘れてしまうのです。
光源氏が25,6歳のころ、彼と朧月夜との密会騒動が大きな問題になっていました。
彼は自ら都を離れ、須磨(兵庫県)で謹慎することを決めます。
密会騒動について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
花散里は、ただでさえ光源氏と会えないのに、彼が遠くへ行ってしまうことに落ち込んでいました。
そんな中、須磨への旅立ちの前に光源氏がやってきます。
二人で月を見上げ、夜明け近くまで話をしました。
ひどく悲しむ花散里は、次のような歌を詠みます。
月かげの やどれる袖は せばくとも とめても見ばや あかぬ光を
(月の光の映る私の袖は狭いけれど、留めてみたい、見飽きることのないその光を)
源氏は彼女を慰めます。
ゆきめぐり ついにすむべき 月かげの しばし曇らん 空なながめそ
(空を行きめぐって、ついには澄むべき月が、しばらく曇るだけなのですから、空を眺めてもの思いに沈まないでください)
会えなくても不満を見せない花散里
光源氏が須磨にいる間、花散里には頼る人がいません。
邸(やしき)には雑草が生い茂り、築地(ついじ:屋根が瓦葺きの塀)がところどころ壊れているようなありさまでした。
彼女は、光源氏への手紙に次のような歌をしたためます。
荒れまさる 軒のしのぶを ながめつつ しげくも露の かかる袖かな
(荒れていく軒の忍ぶ草を眺めて昔を偲んでいますと、涙がしきりに袖を濡らします)
この歌を見た源氏は、二条院に仕えている人たちに花散里の築地を修理するよう指示したのです。
その後、光源氏は2年数か月で都に戻りますが、帰京した後も彼からは手紙が送られてくるくらいでした。
他の女性のもとへ通ったり、仕事で忙しいからでしょう。
花散里にすれば、光源氏の自分への気持ちが分からず恨めしい気持ちになります。
しかし、他の女性のように不満を表には出さず、拗ねたり焼きもちを焼くこともしません。
生活の面倒を見てもらっている立場を自覚し、感謝していたのでしょう。
花散里を大切にしていた光源氏
花散里は光源氏が自分のもとへ来てくれないことに悩んでいますが、彼は訪れることこそ少なかったものの、花散里を大切にしていました。
そのことがわかる点を2つご紹介します。
➀自分の邸宅に住まわせる
光源氏が31歳の時、別邸である二条東院が完成しました。
花散里はここに迎え入れられ、優雅な暮らしを送るようになります。
花散里はおおらかで心静かに生活していました。
光源氏は、いちばん大切にしていた女性・紫の上と比べて花散里の暮らしぶりが劣らないように気を配りました。
だからこそ、どの人も花散里をおろそかにすることはありません。
さらに数年たち、光源氏は広大な御殿・六条院を完成させます。
春夏秋冬の町があり、自分と深いかかわりのある女性たちを1つの町につき1人ずつ住まわせました。
花散里は4つのうちの1つ、夏の町に住むことになったのです。
ずっと別邸に住み続ける女性たちもいる中、春夏秋冬の町の1つに選ばれるのは、かなり特別なことといえるでしょう。
➁子どもたちの養育を任せる
花散里は、光源氏から息子・夕霧の養育を託されました。
夕霧のお母さんは葵の上。彼女は夕霧を産んですぐ亡くなりました。
夕霧は12歳で成人するまで祖母のもとで育ち、それ以降は花散里がお世話をすることになったのです。
大切な息子を預けるのですから、よほど信頼されていたことがわかります。
また何年かして、源氏は玉鬘(たまかずら)を引き取ります。
源氏が17歳の時に熱烈に愛した夕顔(ゆうがお)と、源氏のライバル・頭中将(とうのちゅうじょう)の娘です。
夕顔については、こちらの記事で詳しく解説しています。
花散里は玉鬘の世話も頼まれました。
「息子(夕霧)をお願いして本当に良かった。同じように面倒をみてほしい。
田舎育ちの娘だから、何かにつけてしつけてください」
花散里は、「嬉しく思います」と喜んで引き受けるのでした。
大切にしたくなる女性・花散里の3つの特徴
花散里はなぜこんなに大切にされたのでしょうか。
それは、彼女の人柄を知るとわかるかもしれません。
彼女の特徴を3つご紹介しましょう。
➀不満を言わず、自分のできることに取り組む
光源氏には妻や恋人のような女性が昔からたくさんいて、花散里もその一人でした。
源氏は女性たちの中でも正妻格の紫の上(むらさきのうえ)を最も愛し大切にしており、誰の目にも明らかです。
女性の心情としては、おもしろくないのが本音ではないでしょうか。
紫の上に対し、嫉妬の感情があってもおかしくありません。
しかし、花散里は紫の上と親しく接していました。
紫の上の父親が五十の賀(50歳の節目のお祝い)を迎えたときも、準備をいろいろと手伝うのです。
花散里は、正妻格の紫の上を立て、自分にできる精いっぱいの真心を尽くしていたのですね。
また、光源氏が自分のもとへ来てくれなくても、悩みや不安を彼に見せることはありません。
たまに会いに来てくれる幸せをかみしめ、一緒にいられるわずかなひと時を大切にしようとしていたのでしょう。
子どもたちの養育もし、光源氏から装束の仕立てを頼まれると、裁縫や染め物が得意な彼女はしっかり準備しました。
そのように、自分の立場でできることにきちんと取り組んでいたのです。
➁いつでも迎え入れてくれる温かさ
光源氏は人間関係のストレスなどでどうしようもなくなったときに、花散里のもとへ行きました。
彼女はいつでも迎え入れてくれ、文句も言わず一緒にいてくれるからです。
光源氏にとっては癒しの存在でした。
彼の息子・夕霧も同じです。
夕霧は18歳で幼馴染と結婚し、花散里と別に暮らすようになってからも、しばしば彼女の住む夏の町を訪れます。
夕霧にとって花散里の町は最も心休まるところだったのでしょう。
夏の町で友だちと蹴鞠遊びをしたり、行事のリハーサルに向けて楽器の練習をしたりします。
また、結婚から10年以上経って、妻とは別の人に恋をしてしまったときにも、花散里のもとを訪ねます。
妻以外の女性へ恋心を募らせる夕霧は、何度もアタックを繰り返すものの、相手にされません。
泣く泣く帰り、花散里のもとで一休みするのです。
花散里は「奥さんがかわいそう…」と気の毒がります。
一方で、光源氏について「あなた(夕霧)の浮気に大騒ぎされていますが、自身の浮気癖はどうなのでしょう。自分のことは気づかないものです」と、口にしました。
普段はしまい込んでいた本音をぽろっとこぼしたのですね。
花散里の言葉に、夕霧の心も慰められたことでしょう。
花散里は訪ねればいつでも迎え入れてくれ、装束をきれいに用意し、食事も出してくれます。
夕霧は心身ともに休むことができ、粥などを食べてまた出かけていくのでした。
本当にお母さんのようで、安心感があるのですね。
➂人に対する愛情が深い
光源氏が50代にさしかかったときのこと。
平安時代の寿命は今よりずっと短かったので、光源氏も晩年を迎えています。
この頃、最愛の紫の上が病に倒れて療養を続けていました。
彼女はそろそろ自分の最期が近づいてきたことを感じて、桜の盛りの季節に大々的な法要を開いたのです。
花散里も出席しました。
翌日、花散里と紫の上は歌を交わします。
紫の上はどの人とも永遠の別れに思えて、次のように詠みました。
絶えぬべき 御法<みのり>ながらぞ 頼まるる 世々にとむすぶ 中の契りを
(命わずかな私が営む最後の法要になるでしょうが、頼もしいことに、あなたとのご縁は先の世まで続いていくでしょう)
花散里は、
結びおく 契りは絶えじ おおかたの 残りすくなき 御法<みのり>なりとも
(この法要で結ばれたご縁が絶えることはないでしょう。残り少ない命の誰にとっても、普通の法要でさえもありがたいのに、こんなに盛大な法要ですから)
と返しました。
普通は「弱気なことを言わずに、きっと身体もよくなりますよ」など、励ましの言葉をかけるものかもしれません。
しかし、花散里は紫の上の気持ちを受け止め、「私の命も長くありません。でも、私たちのご縁が絶えることはないでしょう」と寄り添いました。
形式的な慰めの言葉をかけられるより、ずっと紫の上の心は癒されたことでしょう。
光源氏のみならず、誰に対しても愛情深く接していたのが花散里だったのです。
最後まで光源氏を支える
このあと、紫の上が亡くなりました。
光源氏の悲しみは深く、新年を迎えても、いっそう目の前が真っ暗になるありさまで、花散里とも疎遠になっていきます。
それでも花散里は夏になると、源氏の衣がえの装束を準備し、歌を添えて贈るのです。
夏衣<なつごろも> 裁ちかえてける 今日ばかり ふるき思いも すすみやはせぬ
(夏衣に着替える今日はとくに、亡き人を思う気持ちが募ることでしょう)
光源氏からは、次のように返事がありました。
羽衣の うすきにかわる 今日よりは 空蟬<うつせみ>の世ぞ いとど悲しき
(蟬の羽のような薄い衣に着替える今日からは、空蟬のようにはかないこの世がますます悲しく思えてきます)
花散里は、彼が亡くなったあと、遺産として譲り受けた二条東院に移ります。
晩年は夕霧の支えもあって、穏やかに過ごしたことでしょう。
まとめ:いつも等身大だった花散里
花散里は、源氏から1番愛されたいと思うより、たまに会いに来てくれる幸せをかみしめて大切にする女性でした。
背伸びしたり自分を飾り立てたりするところは見られません。
頼まれたからというだけではなく、自ら望んで夕霧の子どもを預かっている場面もあり、お世話好きな一面も見てとれます。
また、光源氏をめぐる女性たちのライバル関係の中、紫の上と穏やかな関係を築いていたのは花散里ならではかもしれませんね。
物語では源氏と兄妹のような間柄になって久しいと語られます。
しかし、最後には彼の装束を準備したり、邸宅を譲り受けるという重要な役割を担っていました。
日々の誠実な心がけが人生を築いていくことに気づかせてくれるヒロインです。
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次に紹介するのは、光源氏の母・桐壺の更衣(きりつぼのこうい)です。
低い身分でありながら、帝に最も寵愛されるというシンデレラストーリーの主人公だった彼女。
しかし物語は、うまい方向には進みませんでした。
果たして何があったのか、源氏物語の始まりを見ていきましょう。
桐壺の更衣については、こちらからお読みいただけます。
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