日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #175

  1. 人生

歎異抄の旅㊽[北陸編]義経、弁慶の「勧進帳」と富山県の「如意の渡し」

古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

今年のゴールデンウイークは、旅行に出かけられた方も多かったのではないでしょうか。
東京では、多くの外国人観光客とすれ違いました。みなさんうれしそうです。旅はいいですね。

今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、富山県の港町・伏木(ふしき)へ向かいます。歌舞伎でも演じられている義経(よしつね)と弁慶(べんけい)のエピソードとは……。

木村耕一さん、よろしくお願いします。

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㊽[北陸編]義経、弁慶の「勧進帳」と富山県の「如意の渡し」の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

赤い列車で旅へ

1両編成の赤い列車で、旅に出ましょう。

──わあ、海が間近に見えます。ここはどこでしょうか。

はい。富山県の高岡駅(たかおかえき)からJR氷見線(ひみせん)の列車に乗りました。

単線なので、1時間に1本くらいしか運行していません。車両はディーゼルエンジンで動くワンマンカーです。東京の地下鉄などに比べたら、エンジン音が大きく、車両の揺れも気になりますが、どこか懐かしい気持ちになります。

──はい、懐かしいです。どこまで行くのでしょうか?

伏木駅で降りて「如意(にょい)の渡し」を訪ねましょう。ここには、源義経と弁慶のエピソードが伝わっているのです。

弁慶の涙は、何のため? 小矢部川の河口で起きた事件

──伏木とは、どんな町でしょうか。

伏木は、古くから開けた港町でした。ここが越中(えっちゅう。現在の富山県)の中心であり、国府(現在でいえば県庁所在地)だったのです。

奈良時代には、『万葉集(まんようしゅう)』で有名な大伴家持(おおとものやかもち)が国守(県知事にあたる役目)として赴任し、多くの歌を詠んでいます。

──『万葉集』ですか。令和の元号の出典も『万葉集』でしたね。

伏木の駅舎は、赤い瓦が印象的です。どこか、歴史を感じさせるたたずまいがあります。

歎異抄の旅㊽[北陸編]義経、弁慶の「勧進帳」と富山県の「如意の渡し」の画像2

駅前には、「如意の渡し」というプレートがつけられた義経と弁慶の銅像が建っていました。
二人は山伏(やまぶし)に変装しています。
しかも、座り込んだ義経を、弁慶が恐ろしい形相で打ちすえているのです。

──これは何を表しているのでしょうか。

歎異抄の旅㊽[北陸編]義経、弁慶の「勧進帳」と富山県の「如意の渡し」の画像3

伏木駅の裏手には、小矢部川(おやべがわ)が流れており、日本海に注いでいます。その河口が伏木港です。
当時、小矢部川には橋がなかったので、向こう岸へ渡るには、船に乗るしかありませんでした。
ここには「如意の渡し」と呼ばれる渡し船が運航していました。その船着場で事件が起きたのです。

歎異抄の旅㊽[北陸編]義経、弁慶の「勧進帳」と富山県の「如意の渡し」の画像4

写真の右側には、かつて「如意の渡し」の船着場があり、平成21年まで運航していました。

『義経記(ぎけいき)』に記されている顛末を要約してみましょう。

     ◆    ◆

義経は兄である源頼朝(みなもとのよりとも)から命を狙われ、奥州(岩手)へ向かって逃げていました。
頼朝は、義経を捕らえようと、全国へ司令を出していましたので、どこを通っても厳しい詮議を受けます。そこで、義経の一行十六人は山伏に変装し、北陸道を北へ北へと急いでいたのでした。

倶利伽羅峠(くりからとうげ)を越えて越中に入ると、目の前に大河(現在の小矢部川)が現れました。
義経一行が、「如意の渡し」の船に乗り込んだ時のことです。

「しばらくお待ちください」
と、役人が声をかけてきました。

続けて、
「役所へ届けを出さない限り、山伏を通してはならぬと定められています。さあ、船を下りて、役所へ来てもらいましょう」

すかさず弁慶が立ち上がり、役人をにらみつけ、
「この中に、義経殿がいると疑っているのだな。いったい、誰が義経殿か、分かっているなら明確に示してみよ」

役人は、船の舳先(へさき)に座っている男を指さして、
「あいつが、間違いなく義経殿だ」
と言い切ります。

見破られた弁慶は、意外な行動に出ます。
「あれは白山から連れてきた法師だ。これまでも、義経殿に似ていると何度も疑われ、我々もひどい目に遭ってきた。本当に、どうしようもないやつだな」
と言って、義経を船から引きずり下ろしてしまったのです。

さらに、
「おまえなんか、とっとと白山へ帰ってしまえ」
と叫び、腰に差していた扇を抜いて、情け容赦なく義経を打ち、殴り倒したのでした。

ぼう然と見ていた役人は、
「まあ、待て。本当の義経殿であったら、そこまではしないだろう。その若い男がかわいそうだ。まるで、私が打ちすえているようではないか。もうやめてくれ。さあ、乗るがよい」
と言って、船を岸に近づけてくれたのです。

このようにして義経一行は、危機を脱し、小矢部川を渡ることができました。

富山湾沿いを北へ向かって歩き、役人の姿が見えなくなるや、弁慶は主君のそばに駆け寄ります。ひざまずいて、義経の袖にすがって言うのでした。

「いくら主君の命を救うためとはいえ、私は、ひどいことをしてしまいました。いつまで、こんな恐ろしい罪を造り続けねばならないのでしょうか。この報いが、恐ろしゅうございます」

あれほどの豪傑が、涙を流して号泣するのでした。

     ◆    ◆

──弁慶の涙は、何を物語っているのでしょうか。

義経は、源平の合戦で、華々しい成果を上げた武将です。その戦いの陰には、常に、弁慶の支えがありました。
主君を信じ、主君に付き従ってきた弁慶が、今度は、主君を殴る役を演じなければならなくなったのです。
世の不条理を、身にしみて感じ、嘆く弁慶……。

──義経や弁慶のように、華々しい成果を上げても、世の不条理には、嘆かずにおれないのですね。

しかし親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、世の中は、理不尽で、不条理で、無常だからこそ、あきらめずに「永久に変わらぬ幸せ」を求めて生きる大切さを、『歎異抄』に述べられています。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)

(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。

*火宅……火のついた家のこと *煩悩……欲や怒り、ねたみ、そねみの心

「如意の渡し」の逸話をもとに、物語の場所を「安宅(あたか)の関」(石川県小松市)に移し、江戸時代に作られたのが歌舞伎の「勧進帳(かんじんちょう)」でした。

──今でも人気がある歌舞伎の演目ですね。

長く人気を誇っているのは、「火宅無常」の人生の一面を知らされ、共感する人が多いからではないでしょうか。

──木村耕一さん、ありがとうございました。『歎異抄』には、昔も今も変わらない人生について書かれているのですね。次回もお楽しみに。