光源氏があこがれ続けた女性、藤壺(ふじつぼ)について2回に分けてお話ししましょう。
紫は高貴な色とされ、「源氏物語」は「紫のゆかりの物語」とも言われます。
藤壺と、光源氏の母である桐壺の更衣、源氏に生涯連れ添う紫の上の3人は源氏物語において重要な登場人物であり、「紫のゆかりの女性」と呼ばれます。
桐壺の更衣は光源氏をこの世に生みました。
更衣によく似た藤壺は、源氏にどこまでも恋慕され、はからずも彼の恋愛の原動力となっていきます。
藤壺によく似た紫の上は、彼女の姪で、源氏の人生を支え続けました。
いずれも光源氏と深い関わりがあり、この3人はよく似ていると記されていますが、性格も人生も三者三様です。
それぞれの生き方を比べてみるとおもしろいかもしれません。
桐壺帝に入内した藤壺
最愛の女性・桐壺の更衣を亡くした桐壺帝は、しばらく立ち直れずにいました。
見かねた女房から紹介された女性が藤壺です。
桐壺の更衣については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
桐壺帝は藤壺が亡き桐壺の更衣にそっくりと聞いた時、大きく心を動かされます。
彼女の入内(じゅだい:帝の妃になること)を強く望みました。
藤壺の母親は、桐壺の更衣が周囲の妃たちにいじめ抜かれて亡くなったことを知っていました。
入内など、とんでもないことだと反対していたのですが、その母がやがて亡くなり、藤壺は周囲の勧めもあって女御として入内することになったのです。
桐壺の更衣を忘れられずにいた桐壺帝は、藤壺を非常に寵愛するようになります。
そして帝は、藤壺の部屋を訪れる際、たびたび光源氏を一緒に連れていくのでした。
「可愛がってやってください。母のいない可哀想な子です。あなたはこの子の母親にそっくりなのです…」
当時、身分の高い女性は夫以外の男性には顔を見せませんでした。幼い男の子にも同じです。
藤壺も気をつけていましたが、ちょっとした拍子に光源氏からちらりと見られてしまいます。
光源氏は、亡き母に似ているらしいと聞き、藤壺を慕っていきます。
折々に桜や紅葉の枝をプレゼントするのでした。
光源氏はこのとき10歳くらいですから、藤壺も微笑ましく思ったでしょう。
光源氏は、最初は母を慕う気持ちだったでしょうが、5歳しか変わらない藤壺への想いはやがて恋慕に変わっていくのです。
太陽にたとえられる完璧な女性
藤壺は最高級の美貌と教養、奥ゆかしさを兼ね備えている人で、欠点がなかなか見つからないという、完璧な女性でした。
しかも、お父さんは以前の帝、母は帝の妻たちの中で一番の后(きさき)でしたから、最高に恵まれた境遇で育ちます。
桐壺の更衣をいじめた張本人である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は、桐壺の更衣そっくりの藤壺も当然、目の敵にしていました。
しかし、更衣とは違い、高い身分を持つ藤壺には手出しができないのでした。
藤壺は、太陽にたとえられ、「かかやく日の宮」(※原作の表現のまま)と呼ばれます。
世の中で最も輝く太陽は、最も力のあるものといえるでしょう。
あらゆるものを兼ね備えた藤壺にぴったりのたとえです。
彼女は帝の実子である源氏とならんで、桐壺帝から深い寵愛を受けました。
光源氏との間にできた秘密
成長した光源氏は葵の上と政略結婚し、藤壺とは互いに距離のある存在になります。
ところが、葵の上とうまくいかない源氏は、藤壺を恋慕し苦悩は深まるばかりでした。
それから6年が経った初夏の頃、藤壺は体調不良のため実家で療養していました。
なんと、そこに光源氏が忍び込んできたのです。
無理に無理を重ねて、藤壺の女房に手引きをさせたのでした。
思いがけぬ逢瀬に藤壺は打ちのめされます。
しかし拒む姿も打ちひしがれる姿も、どこまでも優美で気品があり、源氏をますます魅了し惑わせるのでした。
見てもまた あう夜まれなる 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな
(こうしてお逢いしても再び逢うことはかないそうにもない。この夢の中にそのまままぎれてしまうわが身であれば、と願わずにおれない)
と源氏は詠みます。
藤壺の心は千々に乱れ、次のように返しました。
世がたりに 人や伝えん たぐいなく うき身を醒めぬ 夢になしても
(世の語り草として人々が伝えるでしょう。この上なくつらいわが身を醒めることのない夢にしてしまっても)
この逢瀬により藤壺は懐妊します。
過去からどんな因縁があったのかと我が身を情けなく思わずにはいられません。
懐妊を知った帝は自分の子だと思っているので、藤壺をいっそう大事に愛しく思い、見舞いの使者をひっきりなしに送ってきます。
7月に宮中へ参内すれば、帝の寵愛は以前にまして深く、昼も夜も藤壺の元に出向いてきました。
藤壺は真実が明らかになったらと思うとひたすら恐ろしく、思い悩んで心の休まる時がありませんでした。
藤壺の複雑な胸の内
冬になり、桐壺帝が宮中で先帝の長寿の賀のリハーサルを催すことになりました。
妃たちは本番を見に出かけられないため、懐妊中の藤壺に見せてやりたい、と思ったのです。
光源氏が頭中将(とうのちゅうじょう)と「青海波(せいがいは)」という舞楽の演目を舞います。
鮮やかに射し込む入り日に照らされる美しい光源氏の姿も、響く歌声もこの世のものとは思えません。あまりにも素晴らしく崇高で、みな涙を流します。
光源氏の子をお腹に宿す藤壺は、「このわだかまりがなければ、もっと晴れやかに見ることができたのに…」と夢心地でいました。
その夜、帝から「どうでしたか」と聞かれても、「ご立派でございました」としか返せません。
翌朝、光源氏から手紙が届きました。
日頃は受け取るのも返事をするのも避けていたものの、あまりにも見事な舞だったために、この時は受け取ったのです。
もの思うに 立ち舞うべくも あらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
(恋のもの思いに沈んで晴々しく舞うことのできない私が、あなたへの想いを込めて精一杯袖を振った心を分かってくれるでしょうか)
めったに返事をしない藤壺も、今回は、
唐人<からひと>の 袖振ることは 遠けれど 立居につけて あわれとは見き
(唐の人が舞ったという舞<青海波>は遠い時代の話ですが、あなたの舞の見事さは染々と拝見しました)
と返しました。
光源氏に生き写しのわが子
藤壺は2月10日過ぎに男の子を出産しました。
帝との子であれば出産は12月のはずなので、藤壺は父親が光源氏だと確信します。
しかし、周囲の人々は2か月遅れて生まれたことを物の怪のしわざだと考えて、とくに怪しまれることもありませんでした。
男子誕生の知らせに、帝も藤壺の実家もたいへんな喜びようです。
藤壺自身は「こんな罪を背負って生きていくのはつらい。このお産で死んでしまいたい」と考えていましたが、実際には命永らえたことを情けなく思います。
ただ、弘徽殿女御の呪わしい言葉を伝え聞いたことにより、「自分が死んで世間の笑いものになってたまるか」と心を強く持ち、体力を回復させていくのでした。
藤壺は生まれた皇子をできれば他人に見せたくありません。
光源氏にそっくりで、誰の子か歴然としているのです。
出産の日が2か月ずれていることもあり、どんな噂が流れるかとつらくてたまりませんでした。
わが子に対する正反対の思い
4月になると、皇子を連れて実家から宮中に参内しました。
驚くほど光源氏に瓜二つの顔を見ても、帝は秘密を知るはずもなく「美しい者同士は似ているものだ」と皇子を心から可愛く思っています。
藤壺の御殿で管弦の遊びが催され、帝は源氏を呼び、「皇子はあなたに実によく似ている」と言います。
光源氏は、藤壺の産んだ子が自分との子だと気づいていたでしょう。
我が子を初めて見た光源氏は、顔色が変わり、嬉しさや桐壺帝への申し訳ない気持ちなどさまざまな感情があふれ出て、涙が落ちそうになります。
藤壺は激しく動揺しました。
皇子を見てさらに藤壺に想いを募らせた源氏から文が届きます。
よそえつつ 見るに心は なぐさまで 露けさまさる なでしこの花
(わが子と思っても心は晴れず、いっそう露が添う撫子の花です。庭前の撫子の花にわが子を思ってますます涙にくれるばかりです)
藤壺は、
袖濡るる 露のゆかりと 思うにも なお疎まれぬ やまとなでしこ
(あなたの袖を濡らす露に縁のあるもの<悲しむあなたの子>と思うにつけても、やはりやまとなでしこ<この子>をいとおしむ気持ちにはなれません)
と返歌しました。
「なお疎まれぬ」は、「やはり疎ましく思う」という意味と、「やはり疎むことはできない」の意味のどちらで理解しても文法上正しいのです。
ゆえにどちらが本当かという議論もありますが、どちらの気持ちにも揺れ動くのが人間ではないでしょうか。
欠点のない女性・藤壺の悩み
7月には、第一皇子の母である弘徽殿女御をさしおいて、藤壺の女御が中宮(皇后)になります。光源氏は宰相になりました。
光源氏は藤壺が産んだ皇子の後見人を任されます。
皇子は成長するにつれ、ますます源氏に似てきました。
美しい人は光源氏に似るものだろうと思い、秘密に気づく人はいないようですが、藤壺の苦しみや不安は膨らんでいきます。
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何もかもに恵まれ、太陽のようだとたとえられる藤壺。
桐壺の更衣とは違い、宮中の女性たちからいじめられることはなかったものの、光源氏との関係に悩むことになりました。
ここまでは光源氏の勢いに押され気味の藤壺も、母となり少しずつ意識が変化していきます。
次回の記事では、罪の意識を抱えた藤壺が母となりどのように立ち回るのか、見ていきましょう。
後編の記事はこちらからお読みいただけます。
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