今年も、夏の高校野球の予選が始まりました。夢に向かって一生懸命な姿は、とてもさわやかで、輝いていますね。
さて、高校野球といえば、応援ソング。
心に響く曲が多くありますが、特に私は、岡村孝子さんの「夢をあきらめないで」が好きです。夢に向かって進もうとすると、うまくいかなかったり、難題が持ち上がったりして、くじけそうになります。そんな時、この歌を口ずさむと、背中を押してもらえるような感じがして、元気になります。
今回は『徒然草』から、夢に向かう時に大切な心がけを、木村耕一さんの意訳でどうぞ。
もうこれ以上、世間のつきあいに、振り回されたくない
(意訳)
明日、遠い国へ旅立つ人に、手間のかかることを依頼する人はありません。
突然、重大なことが起こったり、悲しい出来事に襲われている人は、周りから何を言われても、耳に入らないでしょう。それだけでなく、他人に不幸や祝い事があったとしても、見舞いや挨拶をする余裕もないと思います。それでも、恨んだり、責めたりする人はいないはずです。
特別な事情がない限り、世間のつきあい、冠婚葬祭の儀式は、どれ一つとっても、避けることが難しいものばかりです。しかし、すべての儀礼につきあおうとしたら、心身の休まる時がありません。そんなことをしていると、一生は、つまらぬ雑事や義理に振り回されて、むなしく終わってしまうでしょう。
「日は暮れ、行く道は遠い。わが一生は、もはや、つまずき進めない」と、中国の詩人・白居易(はくきょい)が晩年に告白したように、私も全く同じ心境なのです。嘆かざるをえません。
私は、この際、「なぜ生きる」の大問題を解決するために、妨げになるものは、一切、捨て去る覚悟をしました。これからは、世間の義理や礼儀に、関わることをやめます。
切羽詰まった、この私の気持ちの分からない人は、「あいつは、おかしい」「正気を失ったのか」「人間じゃない」と責めるでしょう。でも、もう悪口を言われてもかまいません。褒められても気にしません。ただひたすら、仏教を求めて進んでいきたいのです。
(原文)
諸縁を放下すべきときなり、信をまぼらじ。礼儀をも思わじ。此の心をもえざらん人は、物狂いともいえ。うつつなし、情なしとも思い、そしるともくるしまじ。ほむるとも聞きいれじ。(第112段)
(『月刊なぜ生きる』令和5年7月号「古典を楽しむ」より)
木村耕一さん、ありがとうございました。
兼好さんは、仏教を求めてひたすらに、進まれたのですね。
それぞれの夢に向かう時、こんな真剣さがなければ、果たすことはできないのだなと感じました。