古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
いよいよ夏休み。久しぶりに旅行に出かける方も多いのではないでしょうか。
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、富山と石川の県境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)に向かいます。
富山といえば、私は電車の中で食べた「ます寿司」の美味しさが忘れられません。あのパッケージからして、手間をかけて作られた愛情が感じられるのですよね。
さて、倶利伽羅峠には、角から炎が出ている牛の像があるのだとか……。どんなことがあったのでしょうか、木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
牛の角に松明?
牛の角から、赤い炎が……。
これを「火牛(かぎゅう)」といいます。
国道8号線を、富山県小矢部市(おやべし)から石川県津幡町(つばたまち)へ向かって車を走らせると、道路の標識に火牛のイラストが描かれていました。
さらに、倶利伽羅駅、道の駅「倶利伽羅 源平の郷(さと)」には、勇ましい火牛像が設置されています。
火牛は、観光客の誘致に大活躍しているようです。
──しかし、なぜ、牛の角に松明(たいまつ)をつけたのでしょうか?
そうですよね、目の前の松明に火をつけられたら、牛は驚いて暴れるに決まっています。
──誰が、いつ、こんなことをしたのでしょうか。
この事情を詳しく知っているのが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の弟子、覚明(かくみょう)です。
彼は、かつて源平の合戦で活躍した武将であり、源義仲(みなもとのよしなか)の参謀でした。
『平家物語』は、覚明を指して、
「あっぱれ文武二道の達者かな」
と記しています。
──そんなすごい武将とは!
そんな覚明も、源平の合戦の後は、親鸞聖人の弟子になり、名を「西仏房(さいぶつぼう)」と改めていました。
越中と加賀の国境に、なぜ、〝地獄谷〟ができたのか
親鸞聖人は35歳の時に、無実の罪で越後(えちご。現在の新潟県)へ流刑に処せられました。覚明(西仏房)も、親鸞聖人につき従い北陸道を北へ向かって旅を続けます。
やがて、越中(えっちゅう。現在の富山県)の国府(現在の県庁所在地に当たる)・伏木(ふしき)に到着した時、覚明は、20数年前の出来事を思い出さずにはおれなかったのです。
──どんな出来事でしょうか。
木曽(きそ)で挙兵した源(木曽)義仲が、北陸を制覇して都へ進撃する際の重要な拠点が、伏木でした。
平家は、義仲の動きを阻止しようと、十万もの大軍を派遣します。
迎え撃つ義仲軍の兵力は、その半分しかありません。
──えー、半分しかないのに、どうやって破るのでしょうか……。
はい。参謀だった覚明は、どれほど知恵を絞り、苦労したか分かりません。
平家の軍勢は、越中と加賀(かが。現在の石川県)の国境にある砺波山(となみやま)に本陣を置きました。倶利伽羅峠の辺りです。
これに対し義仲軍は、
「もし敵が倶利伽羅峠を越えて、小矢部の平地に出てきたら勝ち目はない」
として、夜が更けてから奇襲する作戦を立てます。
この時、義仲がとった秘策が「火牛の計」だったと『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』に記されています。
──すごい秘策ですね。
石川県津幡町の道の駅「倶利伽羅 源平の郷」には、実物大の火牛の像が設置されていました。
──迫力があります。
山の中で、こんな牛に追い立てられたら、どんなに恐ろしいでしょうか。
倶利伽羅峠を通る北陸道の歴史を解説する展示室もありました。
──屏風には、火牛に追われ、混乱する平家の軍勢が描かれていますね。
北陸道は、奈良・平安時代から、京の都と越後を結ぶ重要な街道だったのです。
今でこそ、富山と石川の県境にはトンネルがあるので楽に通れます。昔は、険しい山越えでした。
山の上には、平家の本陣跡を示す大きな石碑が建っています。
また、火牛の像が三頭分も並んでいました。
──火牛に追われた平家の軍勢は、どのように逃げたのでしょうか。
実際に、平家が本陣を置いた場所から小矢部市側に向かって坂を走って下りてみました。すると、間もなく道路が大きくカーブしています。白いガードレールがあり、その向こうは深い谷でした。ここが「地獄谷(じごくだに)」です。
暗闇を走ってきた平家の人たちには、道が真っすぐ続いているように見えたのでしょう。気が動転したまま、次から次へと落ちていったのです。
ガードレールのそばには「地獄谷」の解説板が立っています。ここで、何万人もの人が亡くなったと思うと、戦争の愚かさを感じ、背筋が寒くなりました。
源義仲は、この倶利伽羅峠の戦いで大勝利を収めました。そのまま都へ進撃し、平家を一掃することに成功します。
しかし、義仲の栄光は、ほんのわずかの間しか続きませんでした。都に入ってから約6カ月後に殺されてしまったのです。
──わずか、半年とは……。
親鸞聖人が、常におっしゃっていた言葉が『歎異抄』に記されています。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)
(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
*火宅……火のついた家のこと *煩悩……欲や怒り、ねたみ、そねみの心
覚明も、親鸞聖人からこの言葉を聞き、まさに、世の中のことはすべて「そらごと、たわごと」であると知らされたのです。同時に、戦争とはいえ、多くの人の命を奪ってしまった罪悪を強く感じずにおれなかったことでしょう。
「どんな人でも、必ず、永久に変わらぬ幸せに救う」と誓われた阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願に感動し、仏法を求めるようになったのです。西仏房と生まれ変わった覚明は、親鸞聖人につき従って、再び倶利伽羅峠を越えました。かつての戦場で、彼は、どのような思いを抱いたのでしょうか。
──木村耕一さん、ありがとうございました。世の中のことはすべて「そらごと、たわごと」……。『歎異抄』の言葉は、とても深くて、考えさせられますね。次回もお楽しみに。