お盆の時期には家族でお墓参りをしたり、仏事をしたりする風習があります。
そのお盆、そもそもどのような意味であり、どのような由来があるのでしょうか?
そしてお盆にはなぜお墓参りをしたり、お経を読んだりするのでしょうか?
いざ聞かれると、答えるのは難しいですね。
この記事でお盆の由来と、墓参りや読経の本当の意味を学びましょう。
「カフェいろは」登場キャラクターのご紹介
登場人物
真理子
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2人の子どもを持つ、広告代理店勤務の会社員。快活な性格。お気に入りのカフェで行われている「仏教塾いろは」で仏教を勉強中。 |
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智美
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真理子さんのママ友達で、在宅でデザインの仕事をしているDTPデザイナー。 |
奈々 |
原田店長の娘(小学4年)。父親が経営するカフェの勉強会にも参加し、大人顔負けの質問をする。 |
塾長
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仏教塾いろはの塾長。アメリカの大学で仏教の講義をしていた。 |
日も落ち、少し閑散としてきたカフェ店内。めずらしく困り顔で智美に呼びかける真理子。
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智美さん、ちょっといいかしら?
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あら、どうしたんです?
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この前、ナナちゃんに会ったんだけどね…。(以下、回想)
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真理子さん、こんにちは!
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あら、ナナちゃんこんにちは〜。もう夏休みなのかしら?
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うん、もう夏休み!
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いいなぁ~、夏休みかぁ。夏休みにはどこか行くの?
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家族でおばあちゃんのところに行くよ。それでね、海に行ったり、花火をしたりするんだって!
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海に、花火か〜。すごく楽しそうね!
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うん!ナナ、すごく楽しみ。あと、お父さんがお墓参りにも行かなきゃって言ってたんだけど…。
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お墓参りね。亡くなったご先祖さまのお墓を掃除したり、お花を供えたりするのね。
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うん。なんで夏休みのときにするの?
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8月15日がお盆だから、夏休みにみんなですることが多いのよ。
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オボンって何? オボン休みって言うけど、なんでそのときにお墓参りするの?
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えっ? えっと、お盆っていうのはね…。
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(回想おわり)…ってことがあったのよ! 正直わたし、よくわからなくて、困っちゃったのよね…。
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子どもの質問ってときどき、鋭くて答えられない時ありますよね…。お盆ってそもそも何のことなのかしら? お墓参りとどう関係あるのか、塾長に聞いてみましょう。
お経のエピソードからわかる、お盆の由来とは?
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お盆と墓参りについてお話ししますね。
日本では8月15日あたりをお盆といって、墓参りをしたり仏事をしたりする風習がありますね。
そのお盆という言葉の意味は?由来は?と聞かれると、正確に答えられる人は多くないでしょう。
お盆は、正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といい、『仏説盂蘭盆経』というお経からおこったものです。
盂蘭盆経には、お釈迦様のお弟子の目連(もくれん)という人の、以下のようなエピソードが書かれています。
お釈迦さまの十大弟子の一人に目連という人があります。
目連尊者は、神通力第一と称され、特に孝心の深い人でありました。
その目連が、神通自在力を得て三世を観ました時に、痛ましいことに亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが分かったのです。
彼は深く悲しんで、直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、たちまち、その飯は火炎と燃え上がり、どうしても食べることができません。
鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、目連は悲しみ「どうしたら、母を救うことができましょうか」と、釈尊(お釈迦様)にお尋ねしました。
その時、釈尊は、「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。この七月十五日に、飯、百味、五果などの珍味を、十方の大徳、衆僧に供養しなさい。布施の功徳は大きいから、母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教導されました。
目連尊者が、釈尊の仰せに従ったところ、母は、たちどころに餓鬼道から天上界に浮かぶことができ、喜びの余り踊ったのが、盆踊りの始まりだと言う人もあります。
(『親鸞聖人の花びら 藤の巻』p53 高森顕徹著 より引用)
この目連尊者のエピソードが、今日のお盆の由来になっているといわれています。
お盆は、先祖の供養のためにお墓参りをする日?
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そうなるとやっぱり、お盆は、亡くなった先祖の供養のためにお墓参りをする日、ということですか?
この話を聞くと、そのように思う方も多いかと思いますが、もう一度、エピソードを思い出しましょう。
お釈迦様は目連尊者に、亡きお母さんへいろいろなものを供養しなさい、とすすめていたでしょうか?
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それは違いましたよね。目連さんは亡くなったお母さんにご飯を差し出したけど、お母さんは食べることができなかったですよね。
そうですね。亡き先祖のためにお供えをしなさい、とすすめられたお話ではなかったですね。
ですからお盆というのは、元々、亡くなった祖先の墓に参って、祖先の好きだった食べ物などを供養しなさい、ということではなかったのです。
それどころか、お釈迦様にはこのようなエピソードもあります。
ある時、釈尊に一人の弟子が、「死人のまわりで、有り難い経文を唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」と尋ねたことがありました。
その時、釈尊は黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げられました。
水面に輪を描いて沈んでいった石を釈尊は指さされて、こう反問されています。
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば、石は浮いてくるであろうか」
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた、自業自得によって死後の果報が決まるのだ。経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか、というのが釈尊の教えです。
読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったのです。
(『親鸞聖人の花びら 桜の巻』p74 高森顕徹著 より引用)
このエピソードからもわかるように、元々仏教では、墓参りや読経は、亡くなった人のためのものではなかったのです。
墓参りや読経の本当の意味
それでは墓参りをしたり、お経を読んだりするのは意味のないことかというと、決してそうではありません。
私たちは毎日毎日、忙しさに追われて生活をしていますが、テレビやインターネットのニュースでも報じられている通り、毎日、多くの方が亡くなっています。
早いか遅いかの違いはありますが、やがて必ずこの世の終わりというときが、すべての人にやってくるのです。
これを仏教では無常といいます。「諸行無常」という言葉を聞いたことがある人も多いでしょう。
「諸行」とはすべてのもの。この世のすべてのものは、常が無く、続かない、ということが「無常」です。。
みなさん、それぞれ、大切にされているものがありますよね。家族や友人、お金、家や車などの財産、社会的な地位、健康な身体。
それらは普段、私に喜びや安心を与えてくれます。
しかしずっと喜びや安心を与えてくれるわけではありませんね。事故や災害などでいつ失うかわかりません。それはいつも見たり聞いたりしているニュースなどでも明らかな通り、まさに諸行は無常です。
そして最も大きな無常は、私自身が死んでいかなければならないこと。これ以上の無常はありません。
普段はその無常という厳粛な事実を忘れて忙しく過ごしています。
けれどせめて年に一度、やがて自分にも必ず無常がやってくるという事実を心静かに見つめて、「限りある命で本当になすべきことは何だろうか、どうすれば後悔のない人生を送れるのか」と、自分を見つめ直す機会が墓参りなのです。
またお釈迦様は私たちがどの方角に向かって生きていけば、本当に悔いのない人生となるのか、お経の中に教えておられます。
墓参りなどの仏事を縁として、そのお経を聞かせてもらうということはお釈迦様のご説法をお聞きすることになるのです。
ですから、このお盆の時期は無常を見つめて、仏教を聞く。そういうときにしてもらえればと思います。
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お墓参りや読経にはそういう意味があったのですね。全然知りませんでした。ナナちゃんに伝えないと!
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お盆は、亡くなった人のためじゃなくて、お墓参りをしたり仏教を聞いたりして、私自身が人生を見つめ直す機会にするのがいいんですね。とても勉強になりました。
まとめ
- お盆は正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といい、『仏説盂蘭盆経』のエピソードに由来しています
- 『仏説盂蘭盆経』のエピソードから、お盆は本来、亡くなった祖先の墓に参って祖先の好きだった食べ物などを供養する、ということでありませんでした
- 仏教本来からすれば、墓参りや読経は亡くなった人のためのものではなく、やがて自分にも必ず無常(死)がやってくるという事実を心静かに見つめて、人生を見つめ直す機会なのです
人生を心静かに見つめ直したいときに
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