日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #187

  1. 人生

歎異抄の旅[新潟]「親不知」から居多ヶ浜へ、希望に満ちたスタート

古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

9月7日は、木曽義仲(きそよしなか)が平家討伐の挙兵をした日なのだそうです。
木曽義仲といえば、牛の角に火をつけた倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが有名ですね。
今も倶利伽羅駅、道の駅「倶利伽羅 源平の郷(さと)」には、勇ましい火牛像が設置されています(詳しくは「歎異抄の旅」[北陸編]へ)。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」と詠んだのは、松尾芭蕉(まつおばしょう)。木曽義仲も同じ景色を見ていたのか……という感慨深い俳句からは、義仲への想いが伝わってくるようです。

さて「歎異抄の旅」は、前回に続いて新潟県糸魚川市(いといがわし)の「親不知子不知(おやしらずこしらず)」から。松尾芭蕉も、この難所を通ったのだとか……。木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


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「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

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「疲れた〜」と、芭蕉もため息

俳句で有名な松尾芭蕉も、「親不知子不知」を通る時に服をぬらしてしまい、とても苦労したようです。

──松尾芭蕉も、ここを通っていたのですね。

ようやく宿に着いた時の心境を、『奥の細道』に書いていますので、意訳してみましょう。

「今日は、北国一(ほっこくいち)の難所を越えたので、疲れてしまった。親は子を、子は親を顧みる余裕すらないという所だ。犬や馬さえも恐れて戻ってしまうという場所なのだから、私が疲れるのも無理はない。こんな日は、枕を引き寄せて、早めに寝ることにしよう」

北陸新幹線にトンネルが多いわけ

親不知の難所を過ぎて国道を進んでいくと、道の駅「親不知ピアパーク」がありました。北陸自動車道の親不知インターチェンジの近くです。

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この海岸にも砂がありません。富山県朝日町のヒスイ海岸のように小石ばかりの浜辺が広がっています。青緑色の翡翠を探して、波打ち際にたたずむ人が多くいました。

──海上を走っているのは、北陸自動車道でしょうか?

はい、北陸自動車道です。海の上を走っているのが、よく見えます。大きな橋脚に支えられています。
断崖絶壁が、そのまま海に落ち込むような地形ですから、車は、橋を造って海上を走らせるしかなかったのです。

──では、この辺りを通過する北陸新幹線の場合は?

トンネルを造るしかなかったのでしょう。日本海からの激しい風や、北陸特有の大雪に見舞われても、トンネルならば影響を受けることはありません。

──北陸新幹線にトンネルが多い理由が、やっと分かりました。

どこから船に乗られたのか?

越中(えっちゅう。現在の富山県)の国府(こくふ。現在の県庁所在地に当たる)・伏木(ふしき)を出発した親鸞聖人(しんらんしょうにん)一行も、親不知子不知の難所を歩いて渡られたのです。

──江戸時代の芭蕉でさえ「疲れた〜」と言っていました。

はい、鎌倉時代の親鸞聖人の旅は、もっと過酷だったと思われます。

親鸞聖人の目的地は、越後(えちご。現在の新潟県)の国府、現在の上越市でした。
上越市の居多ヶ浜(こたがはま)に船で上陸されたと伝わっています。

──では、親鸞聖人はどこから船に乗られたのでしょうか。

『二十四輩順拝図会(にじゅうよはいじゅんぱいずえ)』を書いた了貞(りょうてい)は、
「どのような言い伝えが残っているか、土地の古老に聞いて回りました。すると、親鸞聖人は小野浦(おのうら)から船に乗られ、海上を8里(約30キロメートル)進んで赤岩に着岸、居多ヶ浜に上陸されたことが分かりました」
と記しています。「小野浦」とは、現在の糸魚川市木浦(このうら)のことです。

私も車で木浦を目指します。親不知から国道8号線を約30キロメートル走った所にありました。親鸞聖人の時代は漁港だったようです。この海岸も、親不知と同じように小石ばかりの浜辺でした。

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上越の居多ヶ浜へ上陸、希望に満ちたスタート

いよいよ、親鸞聖人上陸の地として有名な、居多ヶ浜へ向かいます。
木浦から国道8号線をさらに約30キロメートル進んだ上越市五智(ごち)の海岸です。

居多ヶ浜は美しい砂浜でした。小石ではありません。

──同じ日本海に面していても、数十キロ離れただけで、こんなにも風景が変わってしまうのですね。

親鸞聖人がこの地に上陸されたのは、3月28日だったと伝えられています。
浜辺を見渡す展望台には、大きな石碑があり、次のような親鸞聖人のお言葉が刻まれていました。

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もしわれ配所におもむかずは
何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん
これ猶(なお)師教の恩致なり

御伝鈔(ごでんしょう)』に記されているお言葉です。分かりやすく意訳すると、
「もし私が流刑に遭わなければ、都を離れ、日本の隅々の人々に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願を伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことか。すべては法然上人(ほうねんしょうにん)のおかげである」
と、感謝しておられるのです。

無実の罪で流刑に遭い、親不知子不知の難所を命懸けで越えながら、暗さや挫折感など、これっぽっちも感じられません。
誰を恨むこともなく、
「すべての人を、永久に変わらぬ幸せに救う教えが仏教であることを、日本中へ伝える好機到来だ」
と、親鸞聖人希望に満ちあふれておられたのです。

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──木村耕一さん、ありがとうございました。誰でも心が折れてしまうような逆境の中、希望に満ちあふれておられる親鸞聖人のたくましさに驚きます。すごいです。『歎異抄』のことを、もっと知りたくなりました。次回もお楽しみに。

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