今回は、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の一人娘・秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)を紹介しましょう。
「秋好」と呼ばれるのは、彼女が秋を好むと言ったことに由来しています。
「秋好中宮」は、彼女が中宮という立場になった頃からの呼び名ですが、この記事では便宜上、最初から「秋好」と呼びたいと思います。
彼女の母・六条御息所は、非常に才色兼備で感受性が豊かで苦悩の多い人でした。
御息所がどんな女性か知りたい方は、こちらの記事で詳しく紹介していますので、ご覧ください。
秋好も母と似た性格だったかと言えば、またタイプが異なり、1番安定した性格、1番安定した人生を歩んだ人でした。
彼女はどのような女性だったのか、詳しく見ていきましょう。
六条御息所の娘・秋好
秋好の父は東宮(皇太子)でしたが、彼女が3歳の時に亡くなりました。
その後は、母の実家である六条の邸(やしき)で育ちます。
やがて母・六条御息所は光源氏の愛人となったものの、思うような関係になれず、嫉妬の感情などで苦しみます。
秋好はそんな母のそばで成長しました。
彼女が12歳の時、斎宮に選ばれました。
2年後、つれない恋人・光源氏と距離を置こうと考えた母とともに伊勢(三重県)へ向かうこととなります。
出発の日には、秋好を見送りにきた車が多かったようです。
みんな、彼女の奥ゆかしく上品な人柄を慕っていました。
宮中では朱雀帝から餞別に櫛をもらいます。
朱雀帝は秋好のあまりの美しさ、可愛さに一目惚れしたのでしょう。別れに際して悲しみの涙を流すのでした。
娘のことを源氏にたくす
6年が経ち、役目を終えた秋好は、母とともに伊勢から都に帰ってきました。
その後、母・六条御息所は病に倒れます。
御息所は、今までの行いを振り返って恐ろしくなり、出家してしまったのです。
見舞いに来た光源氏に、自分が亡き後、娘のことをよろしく、と懇ろに頼みます。
ひとりぼっちになる娘、あてになる親戚さえいないのです。
たまらなく心配だったことでしょう。
しかも、源氏にはしっかり釘を刺します。
「愛人扱いは絶対にしないで、お世話してくださいね」と。
源氏はドキッとしながら約束します。
源氏がものの隙間からちらりと見た秋好は、愛らしく小柄な女性でした。
天涯孤独になった秋好
それから1週間ほどで六条御息所は亡くなりました。
秋好は分別も無くなるくらい悲しみに沈みます。
母一人子一人、いつも傍で暮らしてきた二人だったのです。
伊勢に行く時も、母が付きそうのは異例のことでしたが、一緒に行ってほしいと秋好から頼んだくらいでした。
雪やみぞれが空を覆う日、光源氏から見舞いの手紙が来ます。
彼女は返事しづらい気持ちながらも、女房たちに急かされて次の歌を返しました。
消えがてに ふるぞ悲しき かきくらし わが身それとも 思おえぬ世に
(消えそうもなく<死にもせずに>日々を送っているのが悲しいことでございます。涙にくれて、わが身がわが身ともわからない世の中に)
源氏は何につけても丁寧にお世話し、六条京極の邸に出かけることもありました。
ところが、秋好は警戒心からか、周囲の女房たちが困るほど源氏と距離を取るのです。
あまりにも恥ずかしがり屋で内気な様子に見えます。
源氏は「よそよそしくせず、お付き合いください」と言わずにいられませんでした。
冷泉帝へ入内
六条御息所の遺言をふまえ、源氏は秋好を自分の養女として冷泉帝と結婚させるのがよいと考えました。
冷泉帝の母である藤壺にも相談します。
秋好の方が9歳年上というところは気になるものの、冷泉帝をしっかりお世話できる女御がいるとよいだろうという話になりました。
その後、秋好は冷泉帝に入内することになります。
冷泉帝は、年の離れた新しい妃が来ると聞いて緊張していました。
しかし実際の彼女は、小柄でかよわく、たいそう恥じらっておっとりしています。
冷泉帝は、ほっとしました。
また、絵を見るのも描くのも好きな帝は、同じく絵に堪能な彼女に惹かれていきます。
焦ったのは光源氏とライバル関係にある権中納言(頭中将)です。
彼は、帝と同じ年頃の自分の娘をぜひ冷泉帝の中宮にしたいと考えていました。
帝と結婚した女御たちの中で、中宮に選ばれるのはたった一人。
実際には権中納言の娘と、秋好でその座を競うことになったのです。
中宮の座をめぐって「絵合」
権中納言は、当代指折りの画家たちに豪華な絵を描かせます。
光源氏も負けじと、秘蔵の絵を取り出して帝に差し出します。
とうとう冷泉帝の母・藤壺の前で「絵合(えあわせ)」が行われました。
「絵合」とは、素晴らしい絵物語をプレゼンしあうもので、絵と物語のすばらしさを総合して判定するものです。
両者がそれぞれ、とっておきの絵を出しても、決着はつきません。
再度、帝の前で絵合が行われます。
勝負は夜まで続き、最後に光源氏が自ら描いた須磨の絵日記を出して、秋好側が勝利したのです。
やがて秋好は、他の女御たちをこえて中宮となりました。
母・六条御息所とはまったく違う、幸せな様子に人々は驚いたのです。
母・六条御息所と異なる3つの特徴
父も母も早くに亡くし、天涯孤独の身だった秋好中宮は、光源氏の養女となったことで順調な人生を歩んでいきます。
彼女が母と違う点について、ここでは3点紹介しましょう。
➀いつも落ち着いている
母・六条御息所は、嫉妬深く、感情的だったことで知られています。
一方の秋好中宮は感情をあまり表に出さず、いつも落ち着いていました。
冷泉帝に入内した後、ライバル関係にある権中納言の娘と帝が仲良くしていても、嫉妬する様子はありません。
また、秋好に好意を寄せる朱雀院(朱雀帝)に対しても、端然としたところがありました。
秋好が冷泉帝と結婚することが決まったとき、朱雀院は非常に残念な思いで、お祝いの品々と未練がにじんだ歌を贈ります。
秋好は、伊勢に行く時に朱雀院から別れの櫛を頂いた光景を思い出しました。
朱雀院は優雅で美しく、ひどく泣いていたのです。
自分は幼い心で、なんとなく悲しいことと見ていたのが、たった今のことに感じられます。
母のことなども思い出され、次のように返事をしました。
別るとて はるかに言いし 一言も かえりてものは 今ぞ悲しき
(はるか昔、別れに当たり、「帰るな」と言われた一言も、帰京しますと、今はかえって悲しく思われます)
もしかすると秋好も、朱雀院のことが気になっていたのかもしれません。
しかし、自分の思いを表に出すこともなく、冷泉帝と結婚するのでした。
➁光源氏からの好意を嫌に思う
母・六条御息所は源氏の美しさや教養に惹かれ、恋をしました。
だからこそ、光源氏のつれなさに思い悩み、光源氏の妻や他の恋人に嫉妬して苦しんだのです。
秋好はというと、光源氏に対して好意のかけらもありませんでした。
秋好がまだ女御だった頃、二条院に退出した時のことです。
光源氏は母・六条御息所の思い出をしみじみと語ります。
秋好も泣かずにいられません。その様子は、可憐でたおやかな風情でした。
やがて源氏は「特別な思いを抑えての親代わりだと分かってくれますか…」と恋心を訴えてきます。
彼女は戸惑ってしまい返事ができません。
源氏はほかのことに話をそらすしかなく、幼い娘・明石の姫君の将来の後見を頼みます。
また、「春と秋のどちらに、より魅力を感じますか?」と話題を変えました。
彼女は、「はかなく亡くなった母を思うと秋が…」と答えます。
源氏は慕情を抑えかねて、ため息をつきました。
秋好は、たとえ源氏が美しくても、彼の好意を嫌に思うのでした。
➂安定した人生を送る
夫を早くに亡くし、光源氏とのことで嫉妬の連続だった六条御息所。
彼女の人生は波瀾万丈だったかもしれません。
その娘である秋好中宮は、母亡き後、何不自由のない安定した人生を送りました。
紫の上との交流からも窺えます。
光源氏は六条御息所が住んでいた屋敷跡に広大な六条院を造営し、その中に四季の町を作りました。
秋好中宮は、秋の町に移り住みます。
移った時期がちょうど秋で、春の町に住む紫の上には「秋を好む」という意味の歌を贈りました。
心から 春まつ園は わがやどの 紅葉を風の つてにだに見よ
(心から春を待つ園の方は、私の庭の紅葉を風の便りにでもご覧ください)
紫の上からの返歌は、次のような内容でした。
風に散る 紅葉はかろし 春の色を 岩根の松に かけてこそ見め
(風に散る紅葉は軽々しいですね。春の美しさを、どっしりとした岩に根ざす松にご覧ください)
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翌年、春の盛りの頃に、紫の上が春の町で華やかな船楽(ふながく)を催します。
夜を徹して響いてくる琴や琵琶、笛などの演奏を秋好中宮はうらやましく聞いていました。
次の日は、中宮が主催する法会でした。
船楽に参加していた人のほとんどが秋の町に向かいます。
紫の上は、お供えの花を鳥や蝶の装束を着たかわいい子どもたちに持たせます。
次の歌が添えられていました。
花園の 胡蝶をさえや 下草に 秋まつむしは うとく見るらん
(春の花園を舞う胡蝶に対してさえ、下草に隠れて秋を待つ松虫は冷ややかにご覧になるのでしょうか)
秋好中宮は、かつての紅葉の歌のお返しね、と微笑んで読みます。
返事には「昨日は私も船楽に伺いたくて泣きたいほどでした」と書いて、歌を返しました。
胡蝶にも さそわれなまし 心ありて 八重山吹を 隔てざりせば
(「来」いという名の「胡」蝶に誘われて私も行きたかったのです。そちらで八重山吹の隔てを作らなければ)
秋好中宮と紫の上は女性たちの中心となって、六条院で雅な交流をしていたのです。
このような平和なやりとりができたのは、生活が安定していた証拠でしょう。
光源氏への感謝
時が経ち、冷泉帝が即位してから18年が経ちました。
冷泉帝とは、結婚してからずっと仲良く暮らしています。
冷泉帝は「思うままにのんびり過ごせる生活がしたい」と口にしていましたが、病気を患い、急に退位することになりました。
基本的に、中宮は、帝の子どもを生んだ女御から選ばれるものでした。
秋好は、子どものいない自分が中宮になれたのも、ひとえに光源氏のおかげとあらためて感謝します。
数年前には、光源氏の40歳の祝いの宴を盛大に催しました。
源氏が手厚く育ててくれた恩に対して、少しでも感謝の気持ちを形にしたい、という思いがあったからです。
また、父や母が生きていたらきっと行ったであろうお礼の気持ちも込めていました。
秋好中宮の心残り
順風満帆な人生を歩んでいた秋好中宮にとって、ひとつだけ心残りだったのは、母のことでした。
あるとき、訪ねてきた光源氏に、出家したいという思いを打ち明けます。
源氏は驚いて、「無常の世とはいえ、恵まれた境遇ではないですか…。出家など夢にもお考えにならないように」といさめました。
中宮は、自分の気持ちを深くは理解してもらえていない、と悲しく思います。
「亡き母がたいそう苦しんでいるのではと…。
私は先立たれた悲しみばかりが忘れられず、至らぬことです。
母の供養ができないものかと、年齢を重ねるにつれて身に染みて思うようになりました」
とだけ口にしました。
中宮は何不自由ない境遇でも、母・六条御息所のことを考えて、仏道への気持ちは深まるばかりでした。
しかし源氏同様、冷泉帝も許すはずのないこと。
彼女は自分の中で折り合いをつけたのでしょう。
出家はしなかったものの、仏事を熱心に営み、世の無常を心に深く刻んでいくのでした。
秋好から心のこもった手紙
何年かして、長年病に臥せっていた紫の上が亡くなりました。
光源氏が最も愛し、支えとしてきた妻です。
秋好中宮は心のこもった手紙を絶えず届け、自身の尽きることのない悲しみを伝えました。
枯れはつる 野辺を憂<う>しとや 亡き人の 秋に心を とどめざりけん
(枯れ果てた野辺の景色を嫌って、亡き人は秋を好きになれなかったのでしょうか)
「今になってそのわけがわかりました」と。
源氏は繰り返し読み、手紙を下に置くこともできません。
話しがいがあり、風情のあるやり取りをして慰められるのは、今は秋好中宮だけだと思わずにいられませんでした。
数年後、光源氏も亡くなりました。
秋好中宮は子どもがいないので、源氏の末子・薫を大切に世話します。
薫を頼りにしながら、冷泉院との落ち着いた生活を送った秋好中宮ですが、母を想う気持ちはずっと変わらなかったことでしょう。
まとめ:秋好中宮の安定した人生
秋好中宮は、数え3歳で父を亡くしたあと、肉親といえば母・六条御息所くらいでした。
その当代一の才色兼備の母が、光源氏の愛人になって、傷つき苦悩する傍らで育ちます。
母一人、子一人。
娘として、母を守り支えたい、慰め癒やしたい、という気持ちがあったでしょう。
親子でありながら、正反対の人生を歩んだ六条御息所と秋好中宮。
母と共に暮らした時間が秋好という女性の基礎となり、安定した人生を築いていく1つの要素になったのかもしれません。
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続いて登場するのは、雲居雁(くもいのかり)です。
光源氏の息子・夕霧といとこであり、幼少時代を同じ屋根の下で過ごした幼馴染の関係でした。
二人は成長するにつれ惹かれあっていきますが、この恋には大きな障害がありました。
果たして、夕霧と雲居雁はどうなるのでしょうか。
次回の記事で見ていきましょう。
話題の古典、『歎異抄』
先の見えない今、「本当に大切なものって、一体何?」という誰もがぶつかる疑問にヒントをくれる古典として、『歎異抄』が注目を集めています。
令和3年12月に発売した入門書、『歎異抄ってなんだろう』は、たちまち話題の本に。
ロングセラー『歎異抄をひらく』と合わせて、読者の皆さんから、「心が軽くなった」「生きる力が湧いてきた」という声が続々と届いています!