今回紹介する雲居雁(くもいのかり)は、光源氏のライバル・内大臣(ないだいじん)の娘です。
おっとりした性格で、身分の高い家に生まれながら、人柄も容姿も親しみやすく可愛らしい女性です。
光源氏の息子・夕霧(ゆうぎり)はいとこにあたり、それぞれ母親がいないことから祖母・大宮のもとで一緒に育ちます。
成長するにつれ、お互いに惹かれあっていく夕霧と雲居雁ですが、実は、二人の恋には大きな障害がありました。
幼馴染同士の恋のゆくえにも注目しながら、彼女の人柄を見ていきましょう。
雲居雁と夕霧の幼い恋心
雲居雁の母は、早くに夫と離婚して、別の男性と再婚していました。
父方の祖母・大宮に預けられた雲居雁は、いとこ(雲居雁の父と夕霧の母がきょうだい)にあたる夕霧と一緒に育ちます。
10歳を過ぎてからは住む部屋が別になったものの、いつしか二人はお互いに恋心を抱くようになっていました。
雲居雁の周囲の人たちは、二人の仲を知っていても、見て見ぬふりをしています。
なぜなら、雲居雁の父・内大臣が娘を東宮(皇太子)と結婚させようと考えていたからです。
もし、内大臣が知ったら、二人を引き離すに決まっています。
そんなことになったらかわいそうだと、幼い二人の恋を見守っていたのでした。
二人の恋が内大臣に発覚!
ところが、ある時内大臣は、女房(お世話する人)たちが雲居雁と夕霧の仲について噂しているのを立ち聞きしてしまいます。
彼は幼い恋がかなり深まっていることや、女房たちの間で公然の秘密になっていることを知り、愕然としました。
自分のプランが崩れてしまうことや、ライバル・光源氏への対抗意識もあって、二人の仲を受け入れられません。
大宮に、「孫たちを放ったらかしにしていたことが恨めしい」と非難します。
大宮は可愛い孫たちがそのような仲になっているとは知らず、驚くばかりでした。
雲居雁も父・内大臣からあれこれ注意されます。
しかし彼女は実に無邪気で、内大臣にとっていかに重大なことか何も分かっていないようでした。
内大臣は涙ぐみ、腹が立っています。
夕霧と会わせないよう、雲居雁を自分の邸(やしき)に移そうと考えるのでした。
何も知らない夕霧の訪問
その夜、今は光源氏の邸宅で学問に励んでいる夕霧が雲居雁に会いにきます。
しかし、ふすまに鍵がかけられていました。
ふすまを隔てて、彼女の独りつぶやく声が聞こえてきます。
「大空を渡る雁もわたしのように悲しいのかしら」
【原文】
「雲居の雁もわがごとや」
夕霧は「ここを開けてください」と言いますが、返答はありません。
雲居雁は二人の仲を父に知られたことを思い出し、恥ずかしくなって、夜具で顔を覆ってしまいます。
夕霧はどうすることもできず、
さ夜中に 友呼びわたる かりがねに うたて吹き添う 荻<おぎ>の上風<うわかぜ>
(真夜中に友を呼びながら空を渡る雁の声も寂しいのに、それに加えて、荻の葉をなでる風までが吹く)
と詠んで引き返しました。
引き離された二人…。会えなくても想いは募る
結局、雲居雁は父親の邸に引き取られることになりました。
祖母・大宮は嘆き悲しむも、どうすることもできません。
雲居雁は14歳、夕霧は12歳です。
大宮のはからいで、二人は別れ際に会うことができました。
二人とも胸が高鳴り、泣き出してしまいます。
「あなたのことが恋しくて堪えられなくなりそうだ…。今までもっと逢えたのに、なぜそうしなかったのだろう」
「私も同じ…」
「恋しいと思ってくれる?」
姫君はわずかに頷きました。
恋しい思いを確かめ合った二人でしたが、このあとは逢うこともできず、ときどき手紙を交わすだけになったのです。
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結果的に、雲居雁を皇太子へ嫁がせるという内大臣の願いは叶いませんでした。
次の候補として望ましいのは夕霧なのですが、一度引き裂いた仲です。
夕霧もあれ以来雲居雁との結婚に対する熱意を見せず、内大臣としては悩ましい状況でした。
ただ、態度には出さずとも、夕霧は雲居雁を想い続けていたようです。
秋に大きな台風が来たあと、夕霧から雲居雁へ次のような歌が送られてきました。
風騒ぎ むら雲まがう 夕<ゆうべ>にも 忘るる間なく 忘られぬ君
(風がはげしく吹いて、むら雲が乱れる夕方でも、かたときもあなたのことは忘れられません)
夕霧への縁談話 すれ違う気持ち
何年か経ち、雲居雁は20歳になりました。
うわべはさりげなくふるまいながら、もの思いに耽る日々を過ごしています。
そんなある日、父・内大臣から夕霧に縁談の話が来ていることを知らされたのです。
内大臣は涙を浮かべており、雲居雁も涙を流しました。
ちょうど夕霧から手紙が届きます。
つれなさは 憂き世の常に なりゆくを 忘れぬ人や 人にことなる
(あなたのつれなさは、つらい世間の人並みになっていくけれども、あなたを忘れられない私は普通ではないのでしょうか)
縁談があることには何も触れていません。
雲居雁は「よそよそしいこと」と思いながら歌を返します。
限りとて 忘れがたきを 忘るるも こや世になびく 心なるらん
(忘れられない、と言われる私のことを、もはやこれまでと忘れてしまうのも、世間の人並みの気持ちなのでしょうか)
雲居雁は、縁談のことを何も話してくれない夕霧に対して責める気持ちです。
対して夕霧は、縁談があっても、受ける気は一切ありません。
雲居雁が何のことを言っているか分からず、首をかしげてじっと手紙を見つめます。
冗談にせよ、ほかの女性に心を移すことは考えられないのでした。
内大臣の決意
雲居雁は夕霧の縁談のうわさを聞いて悲しんでいました。
一方の夕霧も、雲居雁を想い続けています。
すれ違う二人でしたが、お互いを意識しあっていることに変わりはありません。
内大臣は思い悩んだあげく、夕霧との結婚を許すしかない、と思うようになります。
そんな折、今は亡き大宮の法要がありました。
会場で夕霧と顔を合わせた内大臣は、「私のことを許してほしい」と切り出したのです。
また、内大臣は別の日に藤の宴を催し、夕霧を自邸に招きました。
内大臣は夕霧を懇ろにもてなし、結婚の承諾をほのめかす古歌(ふるうた)の一句を吟じました。
このあと夕霧は雲居雁の部屋に案内され、幼い恋は晴れて実ったのです。
「長いあいだ思いを積もらせて、本当にせつなくて苦しかった。もう何も考えられない」という夕霧の想いは、雲居雁も同じだったでしょう。
人々がうらやむ理想的な夫婦仲の二人に、内大臣も満足するのでした。
親しみやすい!雲居雁の2つの特徴
ここまで二人の恋の行方を見てきました。
続いて雲居雁の人柄について書きたいと思います。
彼女の特徴を2つご紹介しましょう。
➀自然体で飾らない人柄
雲居雁は大臣家の姫君でありながら、気取ったところがない女性です。
夕霧と結婚する前のある暑い日、雲居雁は薄物の単衣(ひとえ)を着て昼寝をしていたことがあります。
薄い衣なので美しい肌が透けて見え、扇を持ったまま腕を枕にしていました。
そこへ内大臣が通りかかります。
雲居雁は父の扇を鳴らす音で目が覚め、ぼんやり見上げたあと頬が赤らみました。
内大臣は、「うたた寝はするものでない、と言っていたのに。女というものは身のまわりに注意して自分を守っているべきだ」と諭すのでした。
こういった自然体なところは、雲居雁の魅力の1つではないでしょうか。
➁嫉妬していても愛嬌たっぷり
結婚後、雲居雁は律義で真面目な夕霧を信頼していました。
たくさんの子どもにも恵まれ、子育てや家事に追われる賑やかな日々を過ごします。
夕霧は、そんな雲居雁の姿を味気なく思っていました。
結婚して10年が経った頃、夕霧は落葉宮(おちばのみや)という女性の世話をするようになります。
亡くなった親友・柏木(かしわぎ)の妻だった人で、亡くなる前に柏木から「妻をよろしく」と頼まれていたのです。
落葉宮と接しているうちに、夕霧は彼女に恋をしてしまいます。
夫と落葉宮とのうわさを聞いて、雲居雁は当然おもしろくありません。
あるとき、夕霧が落葉宮の母から届いた手紙を読もうとしていると、背後から雲居雁がそっと近づいて、手紙を奪い取ってしまいました。
夕霧は「花散里(夕霧の育ての母)からの手紙ですよ。年月が経つにつれて、こうも私をないがしろにするとは…」と非難します。
雲居雁は気が引けて読むことはせず、可愛い表情で「ないがしろにしているのはあなたでしょ」と言い返します。
お互い笑みを浮かべながら、夕霧は手紙を取り返そうとするも、雲居雁は恨みごとを並べるばかりで返そうとせず、そのまま手紙を隠してしまいました。
翌朝、彼女は子どもたちの世話で忙しく、手紙のことは忘れています。
昼ごろ、夕霧は彼女に「昨日の手紙には何が書いてあったのでしょうか。返事だけでも…」と尋ねました。
雲居雁は、自分のしたことが恥ずかしく、話をはぐらかしてしまいます。
結局、夕霧は夕方に自分で手紙を見つけたのでした。
雲居雁の不安
その後も落葉宮へ思いを訴え続ける夕霧でしたが、落葉宮は取り合いません。
拒まれ続ける夕霧は物思いにふけり、自宅に帰っても心は上の空です。
雲居雁は夫の様子に不安を覚えます。
落葉宮は自分よりも身分が上の人。
もし、二人が結ばれれば、自分の立場はどうなるのだろうと心配になります。
ある日、夕霧が落葉宮のもとから自宅に戻ると、日も高くなっているのに雲居雁が寝床で横になっていました。夕霧と目も合わせません。
「私はもう死んでいます。『鬼』呼ばわりされるから…」
怒りで顔が赤くなっていても、愛嬌たっぷりです。
「あなたなんて死んだら。私も死ぬから…」とまで言うのを、夕霧がなだめます。
夕霧はあらためて、二人の結婚までの苦しかった道のりを語りました。
彼女は自分たちのつながりの深さをかみしめるのでした。
「実家へ帰らせていただきます」夕霧と雲居雁の攻防
しかし、その後夕霧は落葉宮と結ばれます。
事の次第を知った雲居雁は衝撃を受け、女の子と幼い子だけを連れて実家に帰ってしまいました。
驚いた夕霧は自邸に戻り、何度か雲居雁に手紙を送りますが、彼女は返事をしません。
仕方なく、妻の実家に行くことにしました。
「子どもたちを放ったらかしにして、のん気なものだね」と責めます。
姉とともにいる彼女からは、「飽きられてしまった身です。子どもたちのことはよろしく…」という返事があるだけでした。
一夜明けて、「これきりの縁だというなら、子どもたちのことは私が面倒をみよう」と夕霧が脅してきます。
雲居雁は不安になり、結局自宅に戻ることになりました。
夕霧は雲居雁がどういう反応をするかお見通しで、彼の方が何枚も上手なようです。
同じ立場になって初めてわかる気持ち
雲居雁は、落葉宮へ恨みの込もった歌を送ります。
夕霧のもう一人の妻・藤典侍(とうないしのすけ)からは、慰めの歌が送られてきました。
藤典侍は雲居雁より身分の低い女性ですから、雲居雁を羨ましく思ったこともあったかもしれません。
雲居雁は同じ立場になって、藤典侍のこれまでの気持ちも少し分かった気がします。
人の世の うきをあわれと 見しかども 身にかえんとは 思わざりしを
(ほかの夫婦の間柄のつらいことをお気の毒だと思ったことはありますが、まさか自分がその身になるとは思ってもいませんでした)
悲しんだ雲居雁でしたが、几帳面で真面目な夕霧は、後に落葉の宮と雲居雁のもとへ均等に通うようになったのでした。
まとめ:素直で明るい雲居雁と実直な夕霧
夕霧の浮気に家出までした雲居雁ですが、結局二人は元の鞘に収まり、落ち着いた生活を送っていきます。
源氏物語の中では、離婚してしまう夫婦や心の溝ができて妻が病気になるケースもある中、珍しいことです。
理由の1つには、二人の愛情と信頼の深さが挙げられるでしょう。
幼なじみ同士で苦労して初恋を実らせた間柄ですから、簡単には崩れません。
また、雲居雁の素直さや素朴で無邪気な明るさは、たくさんの子を持つ母親になっても、嫉妬しても変わりませんでした。
夕霧には、どんな時も雲居雁が可愛らしく映っていたのではないでしょうか。
そんな雲居雁と、聡明で実直な夕霧だからこそ、うまくいったのかもしれませんね。
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次に紹介するのは、源氏物語の悪役として有名な弘徽殿女御(こきでんのにょうご)です。
気が強く、物怖じしない彼女は、まさにお局様。
光源氏と対立する間柄で、長らく彼の前に立ちはだかる厄介な人物です。
しかしそれは、あくまでも主人公サイドから見た姿。
彼女を別の側面から捉えると、また違った姿が見えてきます。
弘徽殿の魅力とは何か、次回解説しましょう。
話題の古典、『歎異抄』
先の見えない今、「本当に大切なものって、一体何?」という誰もがぶつかる疑問にヒントをくれる古典として、『歎異抄』が注目を集めています。
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