今回から「宇治十帖(うじじゅうじょう)」に登場する女性たちを紹介します。
宇治十帖とは、「源氏物語」全五十四帖の中でも最後の十帖のことで、本編の主人公・光源氏亡き後、彼の子や孫が織り成すドラマを描いたものです。
京都の宇治を舞台にしているので、このように言われます。
最初に紹介するのは、大君(おおいぎみ)です。
彼女は宇治に住む姉妹の姉で、非常に思慮深く、ひかえめな性格をしています。
光源氏の末子・薫(かおる)は大君と出逢い、心惹かれていきますが、大君は決して薫を受け入れようとしませんでした。
惹かれあう二人を阻んだものとは、何だったのでしょうか。
可憐な大君と可愛らしい中の君の姉妹
大君は、妹・中の君(なかのきみ)とともに、父・八宮によって育てられました。
彼女たちの母親は、中の君を産んでまもなく亡くなってしまったのです。
姉の大君は気品があって思慮深く可憐で、中の君はとてもおっとりして可愛らしい様子が魅力でした。
二人は八宮から大切に育てられるも、家は落ちぶれていくばかりでした。
八宮は桐壺院の子ですが、父とも母とも早くに死別し、しっかり教育してくれる人もなかったため、世渡りの心構えもじゅうぶんではありません。
相続したはずの遺産や宝物は、いつのまにかなくなっていました。
女房たちや中の君の乳母も離れていき、姉妹の衣装は着古したものです。
ただ、八宮は音楽には打ち込んでいたので、大君には琵琶を、中の君には箏の琴を教えました。
八宮は再婚の話に耳を貸すこともなく、勤行(仏壇の前でお経を読むこと)の傍ら娘たちの教育にいそしむのでした。
薫と八宮の出会い
しばらくして、八宮は都の邸(やしき)を火事で失い、やむをえず宇治の山の中にある別荘に移り住みました。
そんな中で宇治山の僧侶が八宮の仏道への傾倒ぶりを聞き、訪ねてきます。
この僧から八宮が仏道に熱心であること、姫たちの琴の合奏が実に風情あることを聞いた薫は感銘を受け、八宮を紹介してほしいと頼みました。
薫は、幼いころから人生に悩み、仏道に関心を持っていたからです。
八宮と薫は手紙のやり取りをするようになり、やがて仏法について語り合う仲となりました。
薫が心惹かれた美しい姉妹
親交が始まって3年目の秋、薫が宇治を訪問したときのこと。
あいにく八宮は留守でしたが、薫は大君と中の君の姉妹が琵琶と箏の琴を合奏するのを垣間見たのでした。
雲間に隠れていた月が急に辺りを明るく照らし、二人の姫君がくっきり浮かび上がります。
「扇でなくても、この撥でも月を招き寄せることができたわ」と月をのぞく姫は、華やかな艶やかさがあります。
「変わった思いつきね」と微笑む姫は思慮深げです。
「昔物語のようだ。こんな山里に美しい姫がいるとは…」と、薫は強く心惹かれるのでした。
大君と中の君は薫に見られているとも知らず、「どなたかお越しです」との知らせを聞き、静かに奥に身を隠し、大君が御簾越しに薫の対応をします。
客人の対応をする女房(お世話する人)がいないのです。
「何事もわきまえぬ身…」とほのかに語る大君の声に、薫は心を揺さぶられます。
必死に「世間の色恋には無縁な私。所在なく過ごす私の話を聞いてくださり、世間から離れた寂しいあなたの日々の慰めになりと、お便りを頂ければどんなに嬉しいことでしょう」と交際を求めます。
大君は返事のしようがなくて困ってしまい、起き出してきた老女・弁の君に応対を譲りました。
一夜明けて、薫は大君に歌を贈ります。
橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹<さお>のしずくに 袖ぞ濡れぬる
(宇治の姫君の、寂しい心をお察しして、宇治の浅瀬に棹さして行く舟人が棹の雫に袖を濡らすように、私の袖も涙で濡れてしまったことです)
大君は次のように返しました。
さしかえる 宇治の川長<かわおさ> 朝夕の しずくや袖を くたしはつらん
(棹をさして宇治川をゆききする渡し守は、朝も夕も雫に袖を濡らして、すっかり朽ち果てさせているでしょう。私の袖もまた、涙によって朽ち果ててしまいそうです)
匂宮の登場!関心は宇治の姉妹へ
さて、ここで光源氏の孫・匂宮(におうのみや)が登場します。
彼は帝と明石の中宮(光源氏の娘)の第三皇子で、薫と年も近く、仲良くしていました。
匂宮は、薫から宇治の姉妹のことを聞き、関心を持ちます。
宇治の山荘に出向いたり、宇治に手紙を送ったりするようになりました。
ただ、八宮は匂宮の好色な噂を聞いており、恋愛抜きの付き合いという建前で、中の君に返事を書かせます。
大君は用心深く、このようなことには関わりません。
大君は25歳、中の君は23歳です。
当時は14、15歳くらいで結婚するのが当たり前でしたから、とうに婚期を過ぎていても、姉妹はますます美しくなっていました。
八宮は、自身の年齢のこともあり、真剣に出家を望んでいますが、残される娘たちが心配でなりません。
薫が宇治を訪ねた際には、「私の亡き後、娘たちを気にかけて見捨てないでください」と頼みます。
薫は、「ご安心ください。生きているかぎりは変わらない志をお見せしましょう」と応えるのでした。
八宮との突然の別れ
秋が深まる頃、八宮は死期を予感し、山寺に籠もることを決めます。
出発前、姫君たちに遺言めいた話をしました。
「人の死は逃れられぬもの。私の死後、頼る人のないあなた方を残すのがつらい。亡き母のためにも軽率な行動はしないように。よくよく信頼できる男性でなければ、宇治を離れてはなりません。自分たちは世間の人たちとは違うと覚悟してここで朽ちなさい」
その後、八宮は下山の予定日になっても帰ってきませんでした。
姉妹はしきりに使いをやって様子を聞くものの、8月になって使者から父の死を告げられたのです。
姫君たちは、あまりの衝撃に涙も出ず、突っ伏してしまいました。
薫は知らせを聞き、残念でならず、ひどく泣きました。
姫君たちを思いやり、法事などの費用の一切の面倒をみて、懇ろに弔ったのです。
四十九日を過ぎて、薫が宇治にやってきました。
姉妹が気後れして返事もしないでいると、「色恋めいたことはしませんので、八宮様が望まれたように親しんでください」と訴えます。
大君は少し御簾に近づきます。薫は八宮との約束を丁寧な語り口で話しました。
ほのかに聞こえる返事から、大君の嘆き疲れた様子がありありと伝わり、薫は切なく思います。
薫が姫君たちの悲しみを思いやり、ひとりごとのように歌をつぶやくと、大君は
色かわる 袖をば露の 宿りにて わが身ぞさらに 置き所なき
(墨染めの喪服の袖は涙の露の宿るところ、私自身はこの世に身の置きどころもありません)
と返して奥に入りました。
大君に想いを寄せる薫
薫は、上品で優雅、思慮深い大君に好意を寄せるようになります。
大君にそれとなく気持ちを伝えても、彼女は気づかぬふりをして、話をそらしてしまうのです。
薫が八宮の一周忌の準備に宇治を訪れた際、姉妹は仏に供える名香の飾り糸が散らかった部屋で語り合っていました。
薫は次の歌を大君に書きます。
あげまきに 長き契りを むすびこめ おなじ所に よりもあわなん
(名香の糸の総角結びの中に、末長い契りを結びこめて、糸が同じところにより合うように、私たちもいつまでも寄り添っていたいものです)
大君は煩わしく思いながら、このように返しました。
ぬきもあえず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかがむすばん
(貫きとめることもできない、もろい涙の玉の緒のような私の命なのに、末長い契りなどどうして結べましょう)
大君は、父・八宮から言われた通りにしようと、結婚は考えていませんでした。
薫への揺れ動く心…。大君の決意
その晩、大君は御簾と屏風を隔てて薫と語り合います。
薫のひたむきな想いを感じた大君は気まずくなり、「気分がすぐれないので」と奥へ下がろうとしました。
ところが、薫は屏風を押し開けて御簾の中へ入ってきたのです。
そして大君を引き留めました。
「ひどい…」となじる大君は風情があり、薫はほの暗い灯火のもとで、大君の髪を掻き上げて、美しい容貌を目にします。
つらそうに泣く大君を見て、強引なこともできませんでした。
心細い虫の声を聞きながら、この世の無常について語る薫に、大君は時おり返事をします。彼女の気配は好ましいものでした。
明け方になり、薫は歌を詠みました。
山里の あわれ知らるる 声々に とりあつめたる あさぼらけかな
(山里の風情を感じるさまざまな音に、さまざまな思いがひとつになって胸に迫る朝ぼらけです)
大君も歌を返します。
鳥の音<ね>も 聞こえぬ山と 思いしを 世の憂きことは たずね来にけり
(鳥の声も聞こえぬ静かな山奥だと思っていたのに、この世のつらいことはここまで私を追いかけてくるのでした)
この世の儚さを誰よりも感じていた薫と大君には通じ合うものがありました。
そんな薫に真剣に恋心を訴えられて心が揺れ動かないはずはありません。
しかし大君は、父の遺言に従って独身を貫こうという思いを固めます。
そして、人柄も立派で父も頼りにしていた薫と中の君を結婚させようと決意するのでした。
恋の駆け引き!大君と薫の攻防
大君に想いを寄せる薫。
妹と薫を結婚させたい大君。
二人はそれぞれに思惑をめぐらせ、駆け引きが始まります。
どんなやり取りがあったのか、見ていきましょう。
➀先攻:大君
一周忌が過ぎ、薫が宇治へやってきても、大君は対面を断ります。
中の君には薫との結婚を言い含めようとするも、彼女は姉と離れる気がないようでした。
日が暮れても薫は帰りません。
大君は仕えている老女・弁へ「薫には中の君を代わりに」と伝えますが、弁は「あくまで薫の君はあなた様との結婚を希望していらっしゃいます」と言います。
大君はいつものように中の君と一緒に床につきました。
宵が過ぎるころ、弁がこっそり薫を導き入れるも、眠れなかった大君は、その音を聞きつけ逃げてしまいます。
本当は中の君も連れ出して一緒に隠れたかったのですが…。
薫は姫君一人で臥しているのを嬉しく思いましたが、やがて大君ではないと気づきます。
中の君は姉よりも可愛らしく、気が動転した様子でした。
薫にとって、中の君と結ばれるのは本意ではなく、大君にどちらでも良かったのか、と思われたくありません。
気を静めて夜を明かし、退出しました。
帰っていった薫から大君へ手紙が届きます。
薫の一途さを知り、大君はなぜかいつもより嬉しい気持ちでした。
おなじ枝<え>を わきて染めける 山姫に いずれか深き 色と問わばや
(同じ枝を、それぞれ分けて染めた山の女神に、どちらが深い色かと尋ねたいものです…私はお二人のどちらに心を寄せたらいいのでしょう)
大君は薫の歌に返歌します。
山姫の 染むる心は わかねども うつろうかたや 深きなるらん
(山の女神が木の葉を分けて染めた心はわかりませんが、色が変わったほうに深く心を寄せているのでしょう…中の君にお気持ちが深まったことでしょう)
薫は彼女の趣深さに、彼女を憎み切れないのでした。
➁後攻:薫
大君と結ばれたい薫は一計を案じます。
中の君を恋い慕う匂宮を連れ、まずは二人を結婚させようと考えたのです。
宇治を訪れた匂宮は、弁の協力もあり、中の君の部屋へ入ることができました。
そうとも知らず、薫が中の君と結婚する気になったと聞いていた大君は、薫を中の君のもとへ行かせようとします。
しかし薫は、「匂宮が中の君の部屋に入ったようです」と知らせます。
「え、こんな策略をされるとは…」と大君は目がくらみました。
「これも過去世からの因縁、とあきらめてください。もはや私たちが清い関係だと思う人はいないでしょう」と薫は障子も引き破りそうな勢いです。
大君は、冷静に場を収めようとします。
「過去世からの因縁と言われても納得できません。今はただ苦しくて下がらせてほしいだけ…」
薫は自分の行動が気恥ずかしく、大君のことをいじらしくも思います。
とらえていた彼女の袖を離しました。
ためらいながら奥に這い入る大君に愛おしさは募ります。
薫は眠ることもできずに、一人夜を明かしました。
翌朝、薫は「こんな目に遭った人が今までいるだろうか」と、歌を詠みました。
しるべせし われやかえりて まどうべき 心もゆかぬ 明けぐれの道
(案内をした私がかえって迷わねばならないのか。満たされない思いで帰る夜明けの暗い道を)
大君は小さな声で歌を返します。
かたがたに くらす心を 思いやれ 人やりならぬ 道にまどわば
(あれこれと悩む私の気持ちにもなってください。ご自分から好んで道に迷われるのでしたら)
匂宮と中の君の結婚
その後、匂宮と中の君は結婚することになりました。
老女房たちは、匂宮と結婚した中の君のことを喜び、薫を拒み続ける大君の頑固さを悪く言います。
大君といえば、老女房たちの姿にわが身の老いゆく姿を重ねずにいられません。
「あの方(薫)にお会いするのは気が引ける。もう1、2年もすればいっそう衰えるであろうし…」と自らの痩せた手を眺めながら、世の中を思います。
薫が大君を慕うように、大君もまた薫に好意を抱くようになっていました。
しかし、大君は想いを伝える気も、結婚する気もありません。
彼女は老いた自分の姿を薫に見られ、幻滅されるのが怖いのです。
また、当時は一夫多妻の時代ですから、結婚しても他の女性に心が移ることはよくありました。
実際、中の君と結婚した匂宮は、なかなか宇治に来れなくなってしまいます。
大君は、結婚して心が離れていく哀しみを味わうくらいなら、最初から結ばれない方がいいと考えていたのでしょう。
大君の最期…。薫に漏らした本音
このあと、妹が匂宮に裏切られたと感じた大君は、ショックのあまり体調を崩してしまいます。聞きつけた薫が見舞いに訪れました。
大君は頭をもたげて話をし、妹を憐れんで泣くばかりです。
さらに匂宮が身分の高い女性を正妻に迎えるという噂を耳にし、妹のことは遊びだったのかと、大君はますます生きる気力を失っていきます。
胸騒ぎを覚えた薫が再び見舞いに行くと、大君は予想以上の重体でした。
彼女は苦しい息の下から「来てくださるのを待ちわびながら、死んでいくのかと残念でした」と答えます。
薫にやっと少し本音を漏らしたのです。
薫は、そんなに待たせていたとは、としゃくりあげます。
胸が張り裂けそうでした。
つらくて恥ずかしい大君は顔を覆います。
彼女は薫の人柄を有り難く感じ、強情で人の気持ちもわからない女だった、という思い出だけが残るのは嫌でした。
薫から夜通し薬を勧められても、口にしようとしません。
死を意識する大君は出家を願いますが、女房たちに泣き騒いで止められました。
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最期の時を迎えます。
大君は、弱々しくとも見れば見るほど美しく、薫の魂は抜けてしまいそうでした。
彼女は「妹を私と同じように思ってほしいとお願いしましたのに」と恨みます。
薫は「あなたから他の人に心を移せなかった。でも中の君のことは心配なさるな」と慰めました。
やがて大君は草木が枯れるように、静かに息を引き取ったのです。
まとめ:「理想の女性のままでいたい」大君の願い
上流階級の出身でありながら、家が没落し、華やかな都から寂れた宇治に移らざるを得なかった大君。
自身が光源氏の本当の子ではないことを知り、出生に悩んでいた薫。
人生へのむなしさを深めていた二人は、似たもの同士でした。
そんな二人が惹かれあうのは、ごく自然なことだったのでしょう。
しかし、幸せが儚いものだと知っていた大君は、どうしても薫の想いを受け入れられませんでした。
近い関係になれば、いつか幻滅され、心が離れるつらさを味わうことになると思ったからでしょう。
「薫の中で理想の女性のままでありたい」と願う気持ちもわかるだけに、結ばれなかった二人の姿が切なく映ります。
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姉の大君が亡くなり、残された中の君。
夫となった匂宮は将来有望な人物ですが、好色な人柄ゆえに女性関係への心配が尽きません。
人生の荒波にさらされながらも、中の君は元来の前向きさで乗り越えていきます。
次回は、大君とは正反対の人生を歩む中の君について紹介しましょう。
中の君の記事はこちらからご覧いただけます。