前回から、『源氏物語』最後のヒロイン・浮舟を紹介しています。
死別した大君(おおいぎみ)が忘れられず、よく似た浮舟を求めた薫。
浮舟に惹かれ、彼女を手に入れたいと情熱を傾けた匂宮。
二人の男性に挟まれ、追い詰められた浮舟は、ある日突然失踪してしまいます。
浮舟が失踪するまでの経緯は、こちらの記事でご覧ください。
川に入って自殺してしまったと思われた浮舟。
実は彼女は生きていたのですが…このあとどのように生きていくのでしょうか。
実は生きていた浮舟
実は浮舟は、邸より下流にある宇治院で倒れていました。
横川に住む高僧・横川の僧都(よかわのそうず)の弟子たちが、うっそうとした大木の下に白いものが横たわっているのを発見したのです。
木の根元に身を寄せて泣いている女人でした。
弟子たちは、魔物か狐が化けたものではないかといぶかるも、横川の僧都は「まぎれもない人間である」と断言します。
弟子の一人は、「大雨になりそうです。このまま放置すれば死んでしまうでしょう。垣根の外に出しましょう」と僧都に進言しました。
行き倒れの人をよく見かけた当時では、当たり前の言動だったようです。
しかし、横川の僧都は次のように言いました。
「ほかならぬ人ではないか。命あるものを見捨てるとは無慈悲なこと。たとえ一日、二日の余命であっても、大切にせねばならない。非業の死を遂げる者でも、仏は必ず救いたもう。薬湯を飲ませて、最善を尽くさねばならない」
非難する弟子もいるなか、浮舟を助けるよう指示したのです。
横川の僧都と浮舟の縁
さて、横川の僧都に助けられた浮舟を、僧都の妹尼が介抱することになりました。
浮舟を見て、「亡き娘がよみがえったよう」と涙を流します。
ところが、浮舟は衰弱するばかりで、「生き返っても甲斐のない身です。宇治川に投げ入れてください」とつぶやくのみでした。
同じ頃、薫の想い人だった姫君が急に亡くなり、葬儀が行われたと知らせが届きます。
女房たちは、「昨夜の火は葬送の煙のようではなかったのに」といぶかりました。
浮舟が見つかってから2か月が経過しても、まだ彼女の回復の兆しが見えません。
悩む妹尼は、山にこもっていた兄の僧都に下山を懇ろに頼みます。
弟子たちは「朝廷からの要請さえも断って山に籠もっていられるのに、何者とも分からぬ若い女のために下山するとは…」と懸念します。
僧都は「齢六十を越えて、そんなことで非難を受けるのなら、それも過去世からの種まきよ」と言い放つのでした。
果たして、浮舟は僧都の見舞いを受けて、はっきりと意識を取り戻したのです。
浮舟は妹尼たちの介抱で回復
目覚めた浮舟が見たのは、見知らぬ老僧や老尼たちでした。
浮舟は自分がどこに住んでいたか、どんな名前なのかさえ思い出せません。
「身投げするつもりだった…死を願いながら波音激しい川を前にすくんでいた。美しい男に『さあ来なさい、私のところへ』と抱かれ、どこかに置かれて…。その後の記憶はまったくない」
死に損なったとわが身を恥じて、薬湯すら口にしようとしません。
妹尼たちは献身的に介抱し、やがて浮舟は起き上がり食事を口にするまで回復します。
失っていた記憶も徐々に戻っていきました。
回復した浮舟は、出家を望み、「どうか尼にしてください」と訴えます。
妹尼は僧都に願って五戒だけを授けさせました。
五戒とは、在家の仏教信者が守るべき戒律を授けられることで、正式な出家ではありません。
僧都が帰ったあと、妹尼が浮舟の身元を尋ねても、はっきりと返事ができません。
「この世に私がまだ生きていると誰にも知られたくありません…」と泣き出します。
亡き実の娘よりも美しい浮舟を得た妹尼の喜びは尽きないものの、かぐや姫のように消えてしまわないかと心配でした。
秋になって、月の美しい夜には妹尼が琴(きん)の琴などを弾きます。
楽器に触れる機会があまりなかった浮舟は、憂いの思いを歌に託して、手習(てならい:心に浮かぶまま古歌などを書き記すこと)ばかりしていました。
身を投げし 涙の川の はやき瀬を しがらみかけて たれかとどめし
(涙にくれて身を投げた川の早瀬に、誰がしがらみをかけて私を引き留めたのでしょう)
助けられたことが情けなく、この先もどうなるのかと思いやられます。
今になって思い出すのは、浮舟を何とか幸せにしたいと一生懸命だった母や乳母くらいでしょうか。
自分の半生を振り返る浮舟
9月になり、妹尼たちから長谷寺参りに誘われます。
浮舟は「昔、母たちにご利益があるからと言い聞かされて、度々連れ出された。けれど何の甲斐もなかった。自分の命すら思い通りにならず、例えようもなく悲しい目に遭っている」とつらく、断りました。
妹尼は無理に誘うことはせず、浮舟をおいて出かけます。
ところで、妹尼の留守中に、妹尼の亡き娘の婿だった中将が訪ねてきました。
中将は浮舟の姿を垣間見て、浮舟に恋心を抱いていたのです。
周囲も中将と浮舟の結婚を望むも、浮舟は煩わしくてなりません。
訪ねてきた中将は浮舟に迫りますが、浮舟は母尼の寝室に入って逃れました。
中将からは逃げられたものの、浮舟は老尼たちのとどろくいびきが恐ろしく、取って食われるのではないかと生きた心地がしません。
眠れない浮舟は、自分の半生を振り返ります。
実父・八の宮の顔も知らず東国で育って、流離の人生を送ってきた。
異母姉・中の君と束の間親しみ、縁あって薫の想い人になり、突然匂宮と結ばれて…。
「なぜ匂宮をあれほど慕わしく思ったのだろう」と悔やまれます。
今は薫の誠実な優しさが、浮舟の心に残るようでした。
浮舟は横川の僧都へ出家を懇願
翌日、横川の僧都が下山するとの知らせがありました。
出家をしたいと常々思っていた浮舟は、チャンスは妹尼のいない今日しかないと考えます。
浮舟は、到着した僧都に必死で懇願しました。
「死を求めながら、なぜか生き長らえて…。お世話くださったご親切は身に滲みておりますが、世間並みには生きていけそうにありません。どうか出家を」
僧都は当初、「若い身空で…。たとえ今の決意は固くても…」と応じません。
浮舟はなおも必死に訴えます。
「幼い頃から悩みの絶えない身でした。分別がつくようになってからは、変わらない幸せがほしいという気持ちが深くなりました。自分の命も刻々と短くなっているように感じられます」
僧都はついに弟子の僧に浮舟の髪を下ろすよう命じます。
やがて滞りなく浮舟は出家を遂げることができました。
喜びが込み上げ、結婚などを考えずに生きられる、と胸も晴れる思いでした。
薫の様子を聞き、揺れる浮舟の心
長谷寺から小野に帰ってきた妹尼は、浮舟の出家を知って落胆しました。
「あなたが安心して生きていけるよう、お参りしてきたのに」と激しく嘆きます。
妹尼の姿を見て、浮舟は実の母の悲しみを遠く思いやるのでした。
浮舟の出家に驚いた中将からの手紙には、次の手習歌を返します。
心こそ 憂き世の岸を離るれど 行方も知らぬ あまの浮木<うきき>を
(心だけはつらい俗世の岸を離れたけれども、この先のことはまるでわかりません。水に漂う浮木のような尼の身であることよ)
僧都は「今はひたすら勤行をしなさい。老少不定の世の中です」と言い、漢詩の句を引きながら、山里での寂しい出家生活に耐えるよう教え諭します。
浮舟は願った通りにお話くださる、と有り難く聞いていました。
出家してから少し明るくなった浮舟は、勤行にも励み、じつに多くのお経を読んでいました。
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同じころ、薫に仕える者が小野を訪れます。
薫が想い人を亡くしてもうじき一周忌のため、準備の依頼に来て、薫の悲嘆の深さを語りました。
浮舟は、薫の様子を聞き、彼が自分を忘れないでいることに胸が迫ります。
同時に母の嘆きはいかばかりかと思いを馳せました。
そして一周忌が過ぎた頃、薫は浮舟が生きていることを知ったのです。
薫、浮舟の生存を知る
薫は、浮舟に逢いたいと思いを巡らせます。
以前から交流のあった横川の僧都のもとに立ち寄り、浮舟のことを尋ねました。
僧都からこれまでの経緯を聞き、薫は浮舟のいる小野の庵への手引きを頼みます。
一方、浮舟は小野の里で、深く茂る青葉の山に向かい、遣水の蛍を昔懐かしむ慰めに見つめながら物思いに沈んでいました。
そこへ谷の方向から先払いの声がして、数多くの松明の灯と、ものものしい様子が見えます。薫の行列でした。
「月日が過ぎても、こうして昔のことが忘れられない。今さらどうなるものでもないのに」と憂鬱になります。
浮舟はひたすら阿弥陀仏を念じ、いつにもまして黙っていました。
小君や中将の君、大切な家族への想い
薫は浮舟の異父弟・小君(こぎみ)を小野へ行かせます。
ちょうど同じころ、小野には僧都から手紙が届きました。
妹尼は手紙を読んで、浮舟と薫に深い関係があることを知ったのです。
驚いて浮舟を問い詰めるも、浮舟は困惑するばかりでした。
ちょうど小君が僧都の手紙を持って訪ねてきます。
「過去世からの因縁を大切に。薫の君の『愛執の罪』を晴らしてあげなさい。一日だけの出家でも功徳は計りしれない。これまでのように仏縁を求めていきなさい」
手紙には次のようにありました。
僧都は、浮舟に「還俗(出家から元の生活に戻ること)して薫と結婚しなさい」と言っているようにも受け止められます。
御簾の外に目を向けると、小君の姿が映ります。入水を決意した日、本当に恋しく思った大切な弟です。
母の様子が聞けない悲しさに涙がこぼれます。
源氏物語の結末、浮舟の決断
「弟君でしょう。御簾の内に入れておあげなさい」と妹尼は言います。
浮舟はためらいながらも、語り出します。
「かすかに記憶が戻ってくるなか、母君のことだけが気がかりで悲しく思われました。弟にも生きているとは知られたくありません。
母君だけにはお会いしたく思います。僧都の文にある男性には絶対知られたくありません。人違いと言って、かくまってください」
妹尼は、僧都は隠すことができないお方だから難しいと答え、小君を中に入れます。
浮舟は、小君が持ってきた薫からの手紙を受け取りました。
「今までのあなたの重い罪は、僧都に免じて許しましょう。今はただ夢のような出来事について語り合いたい」
薫の手紙を読んで、浮舟は涙にくれ、突っ伏します。
「お返事を」と妹尼に責められ「何も思い出せません。…人違いでは」と手紙を妹尼に押しやり、衣に顔を引き入れて臥せってしまいました。
小君は浮舟に会えず、手紙の返事ももらえず、しょんぼりして帰ります。
報告を聞いた薫は、使いを出さないほうがよかったか、誰か男が浮舟を隠しているのかと、自分がかつて同じように浮舟を放置した経験から、あらぬ疑念を抱き煩悶するのでした。
まとめ:最後に人生を選び取った浮舟
54帖の長編物語は、ここで幕を閉じています。
「これで終わり?」と拍子抜けしたように思う人もあるかもしれません。
ただ、浮舟にとっては大変意味のある場面でした。
前回の記事で紹介したように、不遇な生い立ちや身分の低さから、自分の意志で生きることを許されなかったのが浮舟です。
薫にとって浮舟はあくまでも大君の代わりであり、匂宮は、薫への対抗心から浮舟を求めたに過ぎませんでした。
浮舟は、幼いころから流れに身を任せるしかない人生だったのです。
そんな浮舟が、初めて自分の意志に従って行動しようとしたのが入水自殺でした。
助けられた後は、周囲の反対を押し切って出家。
薫の手紙に返事をせず、小君にも決して会おうとはしませんでした。
薫への想いがなくなってしまったわけでもなく、母には会いたくてたまらない。弟も可愛い。
しかし、出家の生き方を貫くことに決めたのです。
自分の人生にすら決定権を持たなかった浮舟が、最後に自分で人生を選び取った。
紫式部は、浮舟の姿を通して、一つの人生の在り方を示したのではないでしょうか。
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この連載では源氏物語に登場するヒロイン20人をご紹介してきました。
20人の中にあなたの「推し」となる人はいたでしょうか?
実はもう一人、最後に紹介したい女性がいます。
いったい誰なのか、次の最終回で明らかにしたいと思います。
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