とある法律家の方から、ライフ編集部に寄稿いただきました。
「人の命の重さ」というテーマで、考えさせられる内容でしたので、ここに紹介いたします。
みなさんは、どのように感じられたでしょうか。
本当に「人の命は地球よりも重い」のか?
「人の命は地球より重い」
多くの人が、耳にした言葉だと思います。
これは1977年、日本赤軍が日航機をハイジャックした際に、当時の福田赳夫(たけお)首相が語った言葉として知られています。
「人の命はこの地球よりも重いのだ、だからどれだけのお金を積んでも、命には変えられない」
そう言われれば、特別に理由を示されずとも、同意する人が多いのではないでしょうか。
にもかかわらず、その重いはずの命が、中東では内戦により、シリアだけでも40万以上も失われたといわれています。
日本でも減ったとはいえ、毎年、約2万4千人もの人が自ら命を断っています。これでは到底、人の命は地球よりも重いとはいえないのではないでしょうか。
また新聞を開いたり、テレビをつけたりすると、親が子供に対する虐待で逮捕された、学校でのいじめを苦に子供が自殺した。大人についても、上司のパワハラで長時間労働を強要されて自殺したなどのニュースが踊っています。
「虐待の疑いがある」と警察が児童相談所に通告した件数は右肩上がりになっていることも、それを裏付けています。
あまりにも多いため、一つ一つについてだんだん驚かなくなっている自分の感覚にハッとさせられることがあります。
これはどういうことなのでしょうか。
人権をどうして尊重しなければならないのか、その理由がわからない
国の基本である憲法では、「基本的人権の尊重」をうたっています。
ですが、なぜ基本的人権を尊重しなければならないのか、納得できる理由を探してみると、実はその理由がわからない、と気づくのです。
人権は、欧米の天賦人権思想(あらゆる人間には神から授かった生得の権利がある、という考え)に端を発しているといわれています。
しかし神から与えられたということで問題が何ら解決されないことは、無差別に銃が乱射されることもある欧米の状況を見れば明らかです。
日本でも、1年前に障害者施設に侵入して多数の障害者を殺害した犯人が、「障害者は家族や周囲を不幸にしているから、その不幸を減らすためにやった」とその動機を語ったといわれていますが、それは人の命の重さを真っ向から否定する考え方です。
パラリンピックなどで、障害者が困難を乗り越えて記録に挑む姿が多くの人の感動を呼んでいますが、その根底にある、努力が尊いという考え方は、努力するのが困難となった重度の認知症の人の命の重さを意味づけてはくれません。
命の意味の解明が求められている
そこで憲法学者や哲学者も、人権の意味を色々と基礎づけようとしていますが、成功しているとはいえない状況です。
ある法学者は、人間を評して、「人間は、何人もの人と働き、二人で愛し、一人で死ぬ」と言っています。
人間は、多くの人と働く社会の構成員としての面と、愛する家族の構成員としての面と、最後死んでいくときは一人一人という極めて個人的な側面とがあります。
たとえ、社会や家族の構成員として一定の満足を得たとしても、最後はそれらと別れて一人で死んでいかねばならない孤独な存在こそ、人間の真の姿なのです。
高齢化社会が進行し、多死社会となったといわれます。
そんなときだからこそ、やがて歳をとって身体が不自由になり、最後は必ず一人一人死んでいかなければならない人間の命の意味、その重さの解明が求められています。