古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ
季節外れの暑さに驚きましたが、ようやく気温も落ち着いてくるようです。紅葉シーズン、どこかに出かけたくなりますね。
さて今回の「歎異抄の旅」は、紅葉した大銀杏が美しい新潟県上越市の春日山城跡(かすがやまじょうあと)を訪れます。
戦国武将の中で今も人気が高い上杉謙信(うえすぎけんしん)は、どんな一生を送ったのでしょうか。木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします
(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)
上越妙高駅で目に飛び込んできたのは
東京から北陸新幹線に乗り、新潟県上越市へ向かいます。
上越妙高駅(じょうえつみょうこうえき)で降りると「上杉謙信」の名が目に飛び込んできました。通路には「義の武将 謙信公」と書かれた旗が立ち並び、駅の東口には乗馬姿の謙信像が設置されています。
戦国大名の中でも、最も有名な武将の一人に数えられる上杉謙信の拠点、春日山城が、この近くにあったのです。
今回は、上越市内の親鸞聖人(しんらんしょうにん)の旧跡を訪ねる予定でしたが、その前に、春日山城跡に行くことにしましょう。
──よろしくお願いします。
上杉謙信の春日山城〜越後を統一し、最強の武将に
──上杉謙信は有名ですが、どのような生い立ちだったのでしょうか。
上杉謙信は享禄(きょうろく)3年(1530)、春日山城で生まれました。
父は越後(えちご。現在の新潟県)の国守(こくしゅ。現在の県知事に当たる役目)に等しい立場(守護代)でしたが、一族や豪族の間で激しい争いが続き、国内は不安定でした。
そんな中、謙信は19歳で家督を継ぎます。戦が上手で、次々に国内の反乱を鎮圧し、越後の統一に成功したのです。22歳の時でした。
これによって国力を充実させた謙信は、北陸地方を勢力下に収めただけでなく、大軍を率いて何度も関東方面へ出陣し、武田信玄(たけだしんげん)、北条氏康、織田信長などの武将から恐れられていました。
──謙信は、早くから頭角を現していたのですね。
上杉謙信の拠点であった春日山城跡は、上越妙高駅から、車で約20分の所にあります。
この城は標高182メートルの春日山の地形を巧みに利用した堅固な要塞で、難攻不落の名城といわれていました。
──日本が誇る名城なんですね。
そうです。現在、「日本100名城」「日本五大山城」の1つに選ばれています。山の上に城は残っていませんが、頂上の本丸跡まで登るルートが整備されています。
私が訪れたのは11月下旬(令和4年)。快晴でした。まぶしいほどの青空です。紅葉シーズンでしたので、山全体が赤、黄、緑と、カラフルに色づいています。
ふもとから車で上ると、山の中腹に上杉謙信の銅像が建っていました。昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」の放送に合わせて制作されたものです。
「天と地と」は、海音寺潮五郎の同名の小説をドラマ化したもので、上杉謙信役を石坂浩二さん、武田信玄役を高橋幸治さんが演じて大ヒットしました。
宿命のライバルであった謙信と信玄が川中島(かわなかじま。現在の長野市川中島一帯)で激突。双方の兵が入り乱れて戦う中、白馬に乗った謙信が、ただ一騎で武田の本陣へ駆け込みます。
そこには信玄が、泰然と床几(しょうぎ)に腰掛けていました。
馬上から猛然と刃を振り下ろす謙信。
軍配でガシッと受け止める信玄。
──緊迫した一騎打ちのシーンが印象に残っている人もあるのではないでしょうか。
ハイキングを兼ねて、春日山に登るシニア層の人たちをよく見かけるのは、ドラマや小説で謙信のファンになった人が多いからかもしれませんね。
車で上ることができるのは中腹まで、下の写真中央に建つ謙信像が目印です。
すがすがしい風景を眺めながら、舗装された道を数百メートル歩くと、頂上への登山道が現れました。
下の写真は、本丸への登山道の入り口に立っている案内板です。
急な階段を上り切ると三の丸跡の平地に出ました。
下の写真は、三の丸から二の丸への坂道。左上に立っているのは大銀杏です。
人一人がやっと通れるような細い階段や、曲がりくねった道を、3百数十メートル登ると、頂上にたどり着きます。本丸跡です。
ここに立つと、上越市内が一望できます。遠くに日本海も見渡せます。
この見晴らしのいい山頂に、謙信の城が築かれていたのです。関東、信濃(しなの。現在の長野県)、北陸への往来を一目で監視できるので、軍事的にも重要な場所でした。
敵の苦境を救うべきか? 謙信が信玄へ送った手紙
上杉謙信と武田信玄が、川中島で5回めの戦いを終えてから数年後のことです。信玄は、かつてない危機に襲われていました。領内に「塩」がなくなったのです。
──塩は「生命の糧」ともいわれ、水や空気とともに、人間が生きていくのに欠かせないものですよね。どうして「塩」がなくなってしまったのでしょうか。
信玄の領国は海に面していないので、塩を作ることができません。それまで、太平洋側からの輸送に頼っていました。
この急所を見抜いた今川氏と北条氏が連携し、信玄の領国への塩の輸送を全面的に禁止してしまったのです。
──正面から戦ってもかなわない相手への意外な戦略だったのですね。
宿敵・信玄が危機に瀕していることを、謙信は、よく把握していました。
家臣からは、
「今こそ、信玄を討ち破る好機です。甲斐(かい。現在の山梨県)へ攻め込みましょう」
という声が出ましたが、謙信は、あえて兵馬を動かしませんでした。
それどころか、信玄に次のような書状を送ったのです。
「聞くところによると、北条、今川両氏が相謀って、塩を止め、君を苦しめているという。これは、極めて卑劣な行為である。
君と我の争いは、弓矢において決するものであって、米や塩は関係ない。今から、我が国の塩を送る。
君の士卒、兵馬を、一層強化されるがよい。再び戦陣で堂々と相まみえよう」
日本海側から、甲斐へ大量の塩が運ばれました。
──謙信と信玄が、互いを高め合う真のライバルだったからこそ、生まれたエピソードだと思います。
これが、「敵に塩を送る」ということわざのいわれです。敵が苦しんでいる時は、その弱みにつけ込まずに助ける、という意味で使われています。
謙信の辞世の漢詩「49年の人生は、一盃の酒」
武田信玄と激しく戦い、織田信長に恐れられたほどの上杉謙信も、病にはかてませんでした。49歳の若さで亡くなっています。
──まだまだやりたいことが、たくさんあったのではないでしょうか。
病床の枕の下には、次のような辞世の漢詩が置かれていました。
我が一期(いちご)の栄(さかえ)は
一盃(いっぱい)の酒
四十九年は
一酔の間
生を知らず
死をまた知らず
歳月ただこれ夢中のごとし
(新井白石著『藩翰譜(はんかんふ)』より)
(意訳)
人は私の一生を見て、華やかだった、大成功だったと言うかもしれないが、今、思い返すと、酒を一盃飲んだくらいの楽しみでしかなかった。
49年の人生といっても、ほんのしばらくの間、酒に酔っているのと同じくらい儚(はかな)いものだったな。
私はまだ、「生きる」とは何かが分からない。どうすれば悔いのない生き方になるのだろうか。
また、「死」も分からない。死んだらどうなるのだろうか。
まるで夢の中にいるように、歳月だけが、あっという間に過ぎ去った一生であった。
謙信は酒好きだったそうです。大きな杯(さかずき)に、なみなみと酒をついで飲んでいたといわれています。だから辞世の漢詩にも、人生を、酔いが覚めた時の儚さ、むなしさに例えたのでしょう。
謙信が最後に感じ取った人間の有り様は、まさに『歎異抄』の次の言葉に通じるものだと思います。
(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします。
(『歎異抄』後序)
(意訳)
いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
──木村耕一さん、ありがとうございました。今も語り継がれる華々しい活躍をした上杉謙信でも、人生の終わりに振り返って、「酒を一盃飲んだくらいの楽しみでしかなかった」と語っていたとは、考えさせられますね。『歎異抄』の「そらごと・たわごと・真実あることなし」の言葉に驚きますが、何か、人生の答えがあるのかもしれないなと思いました。次回もお楽しみに。