歎異抄ってなんだろう #4

  1. 人生

【歎異抄】なぜ心で思うことが、自分の幸不幸を生み出すのか

8月8日は、親孝行の日です。

数字を「母」と「パパ」にかけた語呂合わせだそうですが、日頃の感謝を形にする日としたいですね。

幼い頃は、「親が見てくれている」という思いから、善いことをしよう、悪いことをやめようという気持ちが強くなりますが、大人になるにつれて、誰が見ていようが見ていまいが、自ら言動を慎むようになります。

でも、心で思っていることぐらいは誰も見ていないし、少々悪いことが思えてきても問題ないだろう……という人がほとんどではないでしょうか。

今回は、目には見えない「心で思うこと」の大切さについて、日本の名著『歎異抄(たんにしょう)』の入門書から紐解いてみたいと思います。

(編集部より)

仏の眼は心の奥底まで見通している

口や体に出さなければ、心で思うぐらいは良いのでないかと思われる方もありましょう。

しかし歎異抄の親鸞聖人の教えで、最も重視されているのは心です。

外に現れる体や口の行いよりも、見えない心を大事にされるのは、なぜでしょうか。

体や口の行いは、心の指示によるからです。

恐ろしい犯罪行為でも、実行犯と、実行犯に指示を出した黒幕がいる場合があります。

実際に犯行を犯した実行犯は重罪で、犯行を指示した黒幕は無罪放免、とはならないでしょう。

犯行を指示して恐ろしいことをやらせた者こそが、最も重い罪に問われなければなりません。

口や体はいわば、実行犯、それに指示を出し動かしているのは心です。

【歎異抄】なぜ心で思うことが、自分の幸不幸を生み出すのかの画像1

心は、火事の際の火の元であり、体や口の行為は、火の元から舞い上がる火の粉に例えることができましょう。

火の粉は、火の元から舞い上がるように、体や口の行為は、心の表現とも言えるでしょう。

だから消火のときも、火元に主力がおかれるように、仏教はつねに、心に視点がおかれるのです。

すべての人は煩悩という治らない難病に侵され苦しんでいる、「心の悪人」だと、親鸞聖人は言われています。

ゆえに歎異抄では、108の煩悩によって罪や悪を造り続ける全人類を、「悪人」と呼ばれているのです。

よって歎異抄で言われる悪人は、法律を犯したり、倫理・道徳上の悪人とは全く意味が異なるのです。

心の奥底まで見通されている、仏の眼から見られた悪人のことなのです。

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肉眼、虫眼鏡、顕微鏡 最も正確に見えるのは?

法律や倫理・道徳と、仏の眼の違いは、肉眼・虫眼鏡・電子顕微鏡の見え方が異なることに例えられましょう。

同じ人の手のひらを見ても、肉眼や虫眼鏡で見た時と、電子顕微鏡で見た時とは、これが同じ人の手のひらかと驚くでしょう。

肉眼で見た時は「結構きれいな手のひらだなぁ」と思えても、虫眼鏡で見ると「このあたりが相当荒れているな」と、少々気になる程度であっても、電子顕微鏡で見ると、どうでしょう。

「ウイルスやら、バイ菌だらけ」で驚くかもしれません。

では、最も正確な手のひらの状態は、肉眼、虫眼鏡、電子顕微鏡の、いずれで見たものでしょうか。

当然、電子顕微鏡でしょう。

同じように、法律で人間を裁くのは肉眼、倫理・道徳の観点で評価するのは虫眼鏡、仏の眼からご覧になった人間の実相は、電子顕微鏡に映れたものと想像されたら分かり易いと思います。

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仏様は見・聞・知のお方とも言われます。

私たちが、誰にも見られていないと自信をもってやった事でも、すべて「見」ておるぞ、陰で、どんなにコソコソ言っていたことも「聞」いておるぞ、心の底で秘かに思っていたことも、みな「知」っておるぞ、と見抜かれているのが仏様です。

ごまかしのきかない、そんな仏の眼からご覧になられた、真実の自己を知らされて親鸞聖人は「善人だと自惚れていたが、私ほどの悪人はなかった」と告白されています。

人間とは死ぬまで煩悩の塊である

親鸞聖人は「人間とは、煩悩の塊であり、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心一杯で、臨終の瞬間まで、それらの煩悩は止まらず、消えず、絶えないものである」と、次のように書き遺されています。

『凡夫』(人間)というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、そねみねたむ心多く間(ひま)なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。
(親鸞聖人)

そして死ぬまで無くならない煩悩を、治らない難病に例えられているのです。

古今東西のすべての人は、死ぬまで無くならない煩悩によって、煩い、悩み、罪をつくって苦しんでいます。

【歎異抄】なぜ心で思うことが、自分の幸不幸を生み出すのかの画像4

では、私たちは死ぬまで苦しみ続け、幸せにはなれないのでしょうか。

親鸞聖人は、私たちの苦しみには「根本」と「枝葉」の2つがあると教えられています。

苦しみの根本が断ち切られない限り、枝葉は、苦しめ悩ませ続けます。

苦しみの根本が断ち切られた時、枝葉は問題にならなくなるのです。

親鸞聖人は、煩悩は苦しみの枝葉であって、根本ではないと教えられています。

では、苦しみの根本とは何か。それこそが、生きている時に治る、もう1つの難病なのです。

(『歎異抄ってなんだろう』高森顕徹 監修、高森光晴・大見滋紀 著より)


 

私たちが日々煩い悩んでいることは、苦しみの枝葉であって、根本ではなかったのですね。それなら、ぜひ苦しみの根本を知って、その元凶から断ち切りたいものです。

この連載では、続けて「はじめての人でも分かる歎異抄」をお届けしていきたいと思います。

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『歎異抄』を原文・意訳ではなく、たとえ話で解説します。
なぜ、『歎異抄』を読むと、心が晴れるのか。人生の支えになるのか。納得できる入門書です。

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