今回は、仕事をつい「頑張りすぎてしまう」ことについて考えてみたいと思います。
いわゆる「過剰適応」についてです。
頑張ることばかりが重視され、自分のケアが後回しになってしまいがちなのは、個々人の問題というよりも現代社会の問題であり、誰にでも関係してくる課題ではないかと思います。
自分さえ我慢すればいい?
Aさんは、昔からいわゆる「いい子」といわれてきました。周りが何を期待しているのかを基準に考え、「人に迷惑をかけてはいけない」をモットーに過ごしてきました。
現在は、事務職として働いていて、問題なく仕事をしているように見られていますが、内心は「トラブルを起こさないように必死」です。
上司や同僚に仲間外れにされないため、ガッカリされないために、ムリな仕事を振られても断れません。
残業をしてでもこなそうとして過重労働に陥りがちです。
本当はひとりでゆっくり過ごしたい昼休みも、ランチはみんなで過ごす風潮があるようです。
周りの会話に合わせて笑顔で振る舞います。
嫌だなと思っても「自分がもう少し頑張ればいいから、我慢すればいいことだから」という考えが染みついており、周りから声をかけられても、「大丈夫です」と答えるのがクセのようになってしまっています。
これでは、無理をしていても中々気づいてもらえません。
自分よりも周りを優先してしまう「過剰適応」とは
さて、A子さんの事例に思い当たるところはありませんか?
過剰適応とは、次のような状態をいいます。
「環境からの要求や期待に個人が完全に近い形で従おうとすることであり、内的な欲求を無理に抑圧してでも、外的な期待や要求に応える努力を行うことである」
(石津、2006)
つまり、自分の気持ちを押し殺してでも他者を優先し、ムリしてでも周りに合わせようとする状態です。
勇気を出して相談してみても、「そんなに無理して周りに合わせようとしたり、よく思われようと頑張らなくてもいいんじゃない?」といったアドバイスをもらいがちな状況かもしれません。
それが出来たらそんなに苦労しなくて済むのですが、そうできないところが苦しいところです。
「よく思われたい」というよりも「嫌われたくない」
「ホメてもらいたい」というより「注意されたくない」
「世渡り術」ではなく「生き残るためのやむにやまれぬ方法」という場合が多いように思います。
これは、自分の気持ち次第でどうにかなるほど単純な問題ではなく、「何か」に追い立てられるような状態であり、自分ではどうにもできずに困っている人も少なくありません。
過剰適応とは頑張ろうとして頑張っているのではなく、「適応しようとすると過剰に動かざるを得ない」状態なのです。
過剰適応傾向のチェックリスト
「無理をしてでも頑張らざるを得ない」状態は、誰にもでも起きうることですが、それが一時的か、慢性的に続いているかで、話はだいぶ変わってきます。
一時的なら何とか頑張れますし、その苦労がやりがいにもなるでしょう。しかしずっと過剰適応状態だと、疲れも取れず、効率も落ちて、どんどんしんどくなってしまいます。
一時的に息を止めて水に潜るのと、息継ぎできない状態は、泳いでいるのと溺れているくらい違うと考えるとわかりやすいでしょうか。
そこで、ここでは自分が過剰適応になりやすい性格かどうか「過剰適応傾向」をチェックしてみましょう。
以下の4つの要素が強い人は、過剰適応になりやすいと考えられています。
- 嫌われたくない(評価懸念)
- 認められたい(多大な評価希求)
- 助けを求めるのが苦手(援助要請への躊躇)
- 完璧主義(強迫性格)
それぞれについて、もう少し詳しい項目がありますので、自身の傾向を振り返る参考にしてみてください。
過剰適応と「自信」の関係
チェックリストで確認した過剰適応傾向は、「自信」が大きく関係しています。
過剰適応とは、内的な欲求を抑圧してでも、外的な要求に応えようとすることですが、言い換えると、外への自信(を守ること)を優先しすぎて、内なる自信を抑えてしまう状態です。
外への自信とは周りからどう見られているか、社会的評価に関する「能力の自信」のこと。能力の自信は、何かができる、能力や成績の高さが問題となる○×の世界、評価やジャッジされる世界を生き抜くためのものです。
一方、内なる自信とは、自分は自分のペースがある、周りの評価も大事だけれど、自分の人生は自分のためと思える「存在の自信」のこと。存在の自信は、○もよし、×でも存在価値は変わらない、良いとか悪いとかの評価を離れた、人間の弱さや、存在そのものを認め合う世界で育まれるものです。
過剰適応傾向の4要素の根本には、「存在の自信」の不安定さがあります。
その不安定さを、能力の自信(仕事の成果や能力)で埋め合わせようとする必死の努力が、無理をしてでも嫌われたくない、認められたいなどの過剰適応となって現れるのです。
頑張っている方がラク?
診療の中で次のような質問をすることがあります。
「あなたは、頑張っている方がラクですか? 休んでいる方がラクですか?」
あるいは、
「あなたは、休もうと思った時に、ちゃんと休めますか?」
休むのが苦手な人は「頑張っている方がラク」と答えるか、あるいは、「どっちがラクかよくわからない」という反応が返ってきます。
「休む時はちゃんと休めている」という人は、当然「休んでいる方がラク」なわけですが、そう感じられないということです。
「休む=頑張っていない、怠けている」と罪悪感を抱いたり、無駄な時間を過ごしているような気がして、身体は横になっていても、心が落ち着かない、という状態です。
これは、当事者はもちろん、その周囲の人にもぜひ知っておいてほしいことです。そうでないと、「休んだのに元気になっていない」ことで自分を責めたり、家族や周りの人に責められてしまうことがあるからです。
実際に、診療で上記のように尋ねて「頑張っている方がラク」という返答を聞いて、同席している家族が「え?そうなの?」「なんで頑張ってる方がラクなの?」と驚いていることは少なくありません。
休むのは難しい
考えてみると、「休む」のは意外と難しいのです。
苦手な人ほど「休む」ためには、「頑張った」という自己認識、あるいは周りからもそう思ってもらっているという認識が必要と感じます。理由がないと休めないわけです。
これは言い方を変えれば、「自分を大切にする」ということがよくわからなくなっている、ということです。
過剰適応が「自分の感情や気持ちを抑圧してでも、過度に周りに合わせること」であるように、自分を抑圧し続けていると、自分が本当はどうしたいのか、休んで自分は何をしたいのか、どうすれば休まるのかわからなくなっているのかもしれません。
休み方が分からないと、勉強や仕事、家事をしていないことを「休んでいる」と言いがちです。ボーっとスマホを見て時間が過ぎ、いまいち回復した感じがしない、ということも少なくないのではないでしょうか。
私たちは「こうすることが頑張るということだ」と“頑張り方”は学校や会社で嫌というほど教わりますが、「こうすると休める(休まる)よ」という“休み方”はほとんど教わる機会がありません。
本当は、頑張ることと休むことは、車の両輪であって、どちらも同じくらい大切だと思うのです。
過剰適応のつらさは、凹めないつらさ
過剰適応のつらさは、「無理をしている状態を、自分ではどうにもできない」点にあります。
自分でどうにもできないけれども、自分のせいだと感じている。無理しなくていいと頭ではわかるけれども、なんだかんだで休めなくて疲れている。
「自己責任」という言葉が、ただでさえ余裕がない自分を縛り、追い打ちをかけてきます。
自責感は、「悪いのは自分」と自分を責める気持ちであり、誰かに助けを求めたり、自分をいたわって休んだりしようとすること自体に罪悪感を抱かせます。
「悪いのは自分なんだから、自分でなんとかしないと」と、孤立しがちです。
さらに、いつもアクセル全開だと「ちょうどいい」がわからなくなり、むしろアクセル全開でいないと手抜きをしている気分になることもあります。
「そうしないと不安で、自分の存在価値がなくなる気がする」という切迫感からという方もいます。
レジリエンスとは、凹まない強さ(頑強さ、硬さ)ではなく、ちゃんと凹むことでストレスに対処する力だと第1回に書きました。
過剰適応は、まさに「凹んではいけない」と自分を追い込み、凹みたくても凹めないつらさと言えます。これは、とても苦しい状態だと思うのです。
凹めない硬い石は、強いストレスにさらされると、バキッと割れたり折れたり穴が空いたりしてしまうように、心も凹めないとポキッと折れたり立ち直れないくらい落ち込み沈んでしまいます。
とはいえ、凹めないのには何か事情や理由があるはずです。幼少期の親子関係や学校での指導など、色々な背景が関係していることが多いように思います。
そんな中で凹む(休む、自分をいたわる)には、勇気が要ります。凹むことは一つの能力であることを「知る」ことが、背中を押してくれるはずです。
まとめ
過剰適応とは、内的な欲求を抑圧してでも、外的な要求に応えようとすることです。
言い換えると、自分の存在感覚よりも他人の評価を優先するあまり、休み方がわからなくなってしまう状態です。
失敗は許されず、周りに迷惑かけることはあってはならない。
本来は優秀でも、そんな不安と緊張感の中で仕事をしていると、一つの失敗でガタっと調子を崩してしまうことがあります。
外的な要求、周囲の期待に応えて成果を出すことも大切なことです。それが悪いわけではありません。
ただ、そのために自分のつらさが抑圧され、排除すべき弱さとしてされてしまうと、どこかで反動がでてしまいます。
ゆえに、大切なのは、評価を気にせずありのままでいられる時間があること、安心して凹めるし頼れる相手がいることです。
人間だもの、そうやってホッと気を抜く時間は誰にも必要です。
凹む力を育むとは、存在の自信(いわゆる自尊感情)を育てなおすことでもあるのです。