前回は、職場で色々我慢してでも周りに合わせてしまう過剰適応について書きました。
こういったことは、職場や学校など外だけでなく、家庭内でもあり得ることです。
「いい親」「いい子」でいようと頑張ってしまう、そんな状況について考えてみます。
今回のキーワードは「理想化・期待」です。
オンとオフの使い分けが難しくなった現代
外では頑張って、家では気を抜いてリラックス。ゆったりまったり過ごしてしっかり休んで、また日中に頑張る。
このように、オンとオフを使い分け、ちゃんと切り替えて休めるときに休めないと、頑張りたいときに頑張れません。
しかし、現代は子どもも大人も忙しく、なかなか切り替えられない。ずっとスイッチオンで、寝るときだけやっとスイッチを切れる、という人は少なくないのではないでしょうか。
大人は一日仕事で、残業もしばしば。帰宅後は家事や育児、介護が待っている。
子どもも、学校から帰ってきたら、宿題や習い事。土日も部活や習い事で埋まっているということも珍しくありません。
心も体もヘトヘトになりながらも、なぜ、こんなに頑張り続けてしまうのでしょうか?
この背景には、「強い主体・強い人間」を社会が求めすぎているのではないか、との指摘をよく見かけますます。
つまり、自分のことは自分でできるのが「一人前」で、他人に頼るのは弱い人間のすること。成功も挫折も「自己責任」とされてしまう社会ということです。
これが小学校から始まり、社会でも、時には高齢者にも求められてしまいがちです。
そのために、過剰適応にならざるをえなかったり、強がったり、他人に頼れなくなったり、無理をすることがどうしても多くなってしまいます。
では、「きちんとしなければ」という意識が、家庭内ではどのように影響するのか、具体的に考えていきましょう。
「いい子に」「いい親に」という期待
スイッチを切りにくい(休みにくい)理由の一つに、「周囲の期待・理想を意識し続けてしまう」ことがあるように思います。典型的なのは子どものしつけです。
少子化といわれて久しいですが、その分、子どもへの期待が高くなっているのかもしれません。
「元気でいてくれればいい」とは思いながらも、つい期待してしまいます。
いつも元気で明るく、勉強もスポーツもできて、挨拶もしっかり、思いやりがあって優しい子に育ってほしい。
そんな期待をうすうす感じて、「いい子」でいなければという空気に縛られてしまう子が、最近増えているように感じます。
「大人になってから思いやりのある人に育つためには、生まれた時から子ども時代ずっと、思いやりのある子どもでいることが必要」
大河原美以(2006)、「泣ける子に育てよう」、河出書房新社
というのは、「子育てにおける大きな誤解の一つ」だと警鐘をならす専門家もいます。
嫌なことがあったら泣いたり、怒ったりする。これは子どもの自然な反応です。
それを親によしよし、なでなで、抱っこしてもらいながら、「いやだったね」「つらかったよね」と、感情を言葉で表してもらう。
「言葉で他者とつながる安心感によって、不快感を落ち着かせる」という経験をくりかえすことで、子どもの感情は育っていきます。
そのため、不快なときはその感情をちゃんと吐き出せることが大切ですが、「いい子」であることを期待されすぎると、それができなくなってしまいます。
「泣くんじゃない、我慢しなさい」と大人はつい言いたくなりますが、そういわれてしまう子は、ネガティブな感情を表出することは良くないことだと学習してしまい、「人間らしい」感情を出せなくなるのです。
このようなことから、過度な期待は「人間性を奪う」とすらいわれます。
社会に押し付けられる「完璧な親」像
これは、単に親の問題ではなく、子どもを育てる親御さんの「周り」の影響も大きいはずです。
「周りに迷惑かけないように」ちゃんとすること、いい子でいること、という社会の期待が親御さんに重くのしかかってくるからです。
子どもが生まれた途端に、親にも「もう親なんだから、子どもの世話ができて当然」といった理想が語られがちです。
弱音も吐けず、どんなに疲れていても育児も家事もして、さらに働いている人もいて、聖人君子のような母親像を勝手に押し付けられて(=人間性を奪われて)、苦しんでいるママたちがたくさんいます。
男性の場合は、「父親たるもの、強く厳しくなければならない」というイメージが染みついていて、あえて厳しい父親を演じている人もいます。
お父さん本人も、何か堅苦しいけれども、そうする以外に、父親としてどう振る舞えばいいのかわからないという人が少なくないのです。子どもとどう遊べばいいか分からない、という親御さんの悩みも珍しくありません。
認知症になっても「しっかりしてほしい」
こういった過度の期待は、高齢になっても追いかけてきます。
「かっこよく年を取りたい」
「若い人に迷惑はかけたくない」
「最後はピンピンコロリで、死ぬ直前まで元気でいたい」
というのは、誰もが願う歳の重ね方かもしれません。
アンチエイジングや、認知症の予防を謳うことも大切ですが、予防を強調しすぎると、老いや認知症に悩むことは「予防の失敗」と解釈され、「認知症になったらおしまい」と過度な絶望となりかねません。
そうなると、本来は人として自然な経過であるはずの衰えや弱さを受け入れられず(凹めず)、「他人の世話にはなりたくない、弱っていく姿は見られたくない」と強がったり、頼ることや支援を拒否してしまうことも珍しくありません。
それが顕著に表れるのが、認知症の方への接し方や、介護抵抗です。
物忘れが増えたり、言葉が出てこなくなると、しっかりしていた頃を知っている家族ほど「しっかりしてよ」と励ましたくなります。
強い親の姿に支えられてきたからこそ、弱っていく姿を見るのがつらくなるのもわかります。
しかし、期待と現実のズレが大きくなると、「しっかりして」の励ましが、「しっかりできなくなった自分はもうダメなんだ・・・」と追い詰めることになりかねません。
効率や生産性を求めてくる社会では、その期待に応えられなくなった高齢者は、社会のお荷物のような扱いをされがちです。これでは安心して老いることができません。
認知症の周辺症状としての暴言や被害妄想なども、安心して凹めず、強がってしまうために現れる症状ともいえるのです。
苦しみの根源は「一方的」な期待
このように、「いい子」「いい親」「かっこいい年寄り」であることが求められすぎると、常に周りの評価が気になってしまいます。
期待することがすべて悪いわけではありません。期待に応えようと頑張れることもありますし、まったく期待してもらえないのは寂しいことです。
期待が苦しくなってしまうのは、それが「一方的」であるときです。
「別に、悪口を言っているわけでもないし、むしろ応援したくて期待しているのだから、多少一方的であったとしても、何が悪いんだ」という意見もあるかもしれません。
本当にそうなのでしょうか。
少し極端なケースをみてみましょう。
Bくんは、親御さんの期待を一身に背負い、とても勉強を頑張ってきました。
親御さんから「ゲームをしてはダメ」と言われたわけではありませんが、「勉強を優先することにした」と報告すると喜んでくれます。
そんな親の期待に応えたいと思い、ゲームをしたい時も友達とは遊ばず、宿題を優先してきました。
数学は苦手だなと感じて、相談しても「あなたなら大丈夫」と即答されてしまうため、それ以上悩みを言えません。
テストの点数が悪かったときも叱られたりはせず、「次は頑張れ」と励まされ、点数がいいときは大喜びしてくれます。
そんなBくんは、ある時テスト前に急に学校に行けなくなりました。部屋に引きこもり、「なぜ学校に行けないのか」は誰にも話してくれません。
彼がその時の心境を話せるようになったのは、一年後でした。
「期待に応えようと頑張ってきたけれど、もう限界だった。成績が落ちたら全てが終わる気がした。『できない、やりたくない』といえなかったし、言ったら自分の存在意義がなくなると思っていた。」
精神科の外来でも、「特に誰かに何か傷つけられるようなことを言われたり、強制されたりした経験があるわけではないけど、すごく生きづらい」という相談は珍しくありません。
なんとなく周りが自分に期待していることを感じ取り、でもその期待に応えられない自分を責めて、動けなくなってしまう。
はっきりと周りから何か嫌なことを言われたわけではないので、自分は被害者とも思っていないし、勝手に自分を責めて自滅していると思っていて、そんな自分をさらに責めて、追い詰めてしまう。
このように「理想」を内在化してしまうと、自分で理想と現実を比べて、一人で傷ついてしまうことになりかねません。
こういった悩みは人にも言いにくいために、孤立してしまいやすいのです。
凹むことは、開き直りではありません
こういった社会背景を知ることは、「健全な被害者意識」をもつために必要だと思っています。これは開き直るのとは違います。
過度に自分を責める気持ちは、自分を蔑ろにしてしまい、自分を大切にできなくさせます。
そんなときは、まずはその自己否定感を和らげるために、自分の責任を免除する必要があります。
だれか特定の個人を責めるのではないけれど、とにかく自分はつらかった、悲しかった、という自分の気持ちを認めるために、「誰か、何か」のせいにすることも大切だと思うのです。
ちゃんと凹める、苦しみを認められると、自己否定感が減り、自尊感情が回復していきます。
そうして自分のケアをしていくと、自分の苦しみの原因はなんなのか、自分が引き受けるべき責任とも向き合えるようになり、人生の主導権を取り戻せるようになるのです。
まとめ
過剰適応の背景には、「強い主体・強い人間」を求めすぎる社会があるといわれます。
理想像に縛られて、大人も子どもも家庭内ですら休めていないことは少なくありません。
それが当たり前になっていると、無理をしていると気づくことも難しくなります。
まずは、自分や周りに期待しすぎていないか、自問するところから始めてみてはいかがでしょうか。
たとえ期待しすぎていたとしても、それがすべて自分のせいとは限りません。自分もまた、周囲の期待に押しつぶされないように必死だったのかもしれません。
そんな自分への気づきが、凹む力を育み、自分らしさを取り戻す、確かな一歩になるはずです。