現代の傾向として、職場でも家庭でも過剰適応して無理をしている人が多いのではないかと感じ、色々と書いてきましたが、今回はその総括として、そうなりやすい社会的な背景にについて考えてみます。
ポジティブ中毒~前向きでいることに疲れていませんか?
現代では、一見、元気そうで、頑張っているけれども、実は「何か」に追い立てられるような頑張り方をしている人が多いように思います。
特定の誰かに認めてもらいたいわけではないけれども、常に「誰か」の評価を気にしてしまう、あるいは「誰か」と比べてしまう(勝ち負けで考えてしまう)。
そこで考えたいのが、「ポジティブ中毒(toxic positivity)」という言葉です。「有害なポジティブさ」とも訳されます。
「どんな状況下においても幸せで楽観的な状態でいることを、過度に一般化しすぎること。その結果、純粋な感情を否定、矮小化、無効化すること」をいいます。
参考:“Toxic Positivity(有害なポジティブさ)”とは? 常に前向きじゃなくていい、ファッションも人に寄り添うものに – WWDJAPAN
よいことのはずの「ポジティブさ」が中毒・有害とされるのは、「どんな状況下においても」ポジティブであろうとしてしまう点です。
中毒(toxic)とまで表現されるのは、無理している自覚はあっても、「わかっちゃいるけど、やめられない」状態だからでしょう。
これは「幸せそうに見える」ように過剰適応した状態ともいえます。
ポジティブな言葉を使うことや、前向きな考え方をすることは「よいこと」ですが、ポジティブでいることが当たり前だと言われると、逆に苦しくなってしまいます。
人間は、つねにポジティブでいられるほど強くないからです。
裏を返すと、つねにポジティブであることは、どこか「人間らしくない」不自然さを感じないでしょうか。
しかし現実には、本当はしんどくても、周りから明るく楽しそうに見えることが気になり、やがて「幸せそうに見られるため」に無理を重ねることは珍しくありません。
私たちは子どものころから「相手の気持ちを考えなさい」と教えられてきました。誰かを傷つけないように、他人に迷惑をかけないように。
誰かの悪口を言ってしまったら「悪口を言われた人の気持ちを考えなさい」と叱られます。
しかし悪口を言ってしまった(言わずにおれなかった)自分の気持ちは聞いてもらえず、わかってもらえない。
悪口をいう前に、相手に何かを言われて嫌だったとか、悔しかった、悲しかったなどの気持ちがあったかもしれないのに。
自分の気持ちよりも、相手の気持ちに配慮するよう求められると、「自分の気持ちはさておき、周りに受け入れてもらいやすい(幸せそうに見える)自分」でいなければならないと考えるクセがつくのも、無理からぬことです。
ポジティブさは「呪い」にもなる
「大丈夫」という言葉があります。
この言葉に励まされることもあれば、逆に気持ちにフタをすることにもなりえます。
凹んでいるとき、弱音を誰かに聞いてもらいたいときに、「あなたなら大丈夫だよ」と言われて、それ以上何も言えなくなってしまう、という経験はないでしょうか。
あるいは、誰かに心配してもらったときに、つい「大丈夫です」と言ってしまう。
「大丈夫」という言葉が、つらい心にフタをする「呪い」になってしまうことがあります。
「大丈夫」という言葉が悪いわけではないのに、なぜ「呪い」になってしまうのでしょうか。
一言でいえば、「凹めない」からでしょう。
「呪い」という言葉のイメージでいえば、「凹むことを許されない」からといえます。
そうなると「大丈夫じゃないとダメなんだ、大丈夫な自分じゃないと受け入れてもらえないんだ」と自分に言い聞かせるしかありません。
助けを求めても「どうせ何もしてくれない」という思いもあるかもしれません。
これは「大丈夫」という「鎧」で自分を守っているような状態かもしれません。
たとえ鎧が、冷たくて、固くて、重くて疲れていても、脱いだら傷つけられてしまうかもしれないと思うと、怖くて脱げないような。
心の健康を表す「レジリエンス」とは、しなやかな強さ、凹んでも戻れる力があることだと、連載の第一回で紹介しました。
心が折れないためには、凹まない硬さよりも、柔軟な強さ、ちゃんと凹んでから立ち直ることが必要です。
ポジティブさを、「どんな状況下でも」凹まない強さと捉えてしまうと、上述のような不自然な前向きさになり、「大丈夫」という言葉も呪いになりかねません。
参考:Be! [季刊ビィ] 153号, 2023, 特集:不安・拒絶・トラウマ反応?『大丈夫』にひそむ、自分を知るヒント
私たちは「無痛文明」に生きている
このように、ポジティブさ(前向き、明るく、元気)が過度に強調されると、ネガティブな気持ちを持つこと自体が悪いことのように感じられてきます。
充実していない、何かが足りない、評価されないなどの不安や不満、孤独感などのネガティブな感情は、自分を振り返るきっかけにもなるものです。
しかし、そうした欠如・喪失感をすぐに、SNSなどで手っ取り早く何か仮のもので誤魔化せてしまうのも、現代社会の特徴でしょう。
そういった風潮は、20年以上前から指摘されています。
われわれの中には、快楽や快適さや安楽さを求め、苦しみや痛みやつらさなどをできるかぎり避けようとする欲望がある
森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー、2003)
これが「われわれの文明を突き動かす原動力」であり、世の中はますます無痛化するように『進化』しているといいます。
夏は暑くないように、冬は寒くないようにエアコン完備の室内で過ごすようになり、もはやこれら無しでは生きていけません。
退屈しないように、人とつながれるように、スマホも生活必需品であり、これを持たずしては生きていけなくなりました。
「無痛文明においては、苦しみやつらさというものは、我々が自ら選び取ることのできる選択肢としてのみ存在する」
つまり、苦しいのもつらいのも自分でなりたくてなっている。最近では「自己責任」という言葉で表現されます。
このような便利さの発展は、「目隠し構造」の開発でもあり、無痛化することで失われたこと、気づけなくなっていることを先送りしているだけの問題があるのではないかと、警鐘をならしています。
身近な言い方をすると、痛いときに「痛かったね」の一言がでてこず、どんな時でもすぐに「痛いの痛いのとんでいけー」と連呼し、「痛い」と言わせないことで、痛みを無いことにしようと押し殺していないか、ということでしょう。
共感する一言なんてない方が早く泣き止むとしたら、それは気持ちが落ち着いたからではなく、気持ちを表現することをアキラメてしまったからかもしれません。
そうなると、自分が感じているネガティブな感情(悲しみや寂しさ、怒りなど)を感じている自分が悪い(おかしい)のかもと思えてきます。
無痛化によって失われているものとは、まさに「凹む力」であり、つらいときはつらいと言える「人間らしさ」ではないでしょうか。
SNSにおける「ポジティブ中毒」傾向チェック
「きれい過ぎる世界」に苦しむ私たち
同様の指摘は、最近では「ポストコロナの生命哲学」(福岡伸一, 伊藤亜紗, 藤原辰史、集英社新書、2021)でも語られています。
コロナの世界において注目すべき一つの大きなキーワードは「きれい過ぎる世界」だと思っています。
私たちは、人間の不浄な部分に蓋をしがちで、ずっときれいなまま、若いままでいたい、常に成長していたい、といった欲望にずっと心を奪われてきたと思います。
今回、新型コロナウィルスの感染拡大の中で私たちが見つけ出そうとしているのは、そんなきれい過ぎる人間観を見直すということではないでしょうか。
私たちの社会は今、何かに取り憑かれたようにノイズを消していく方向へと向かっています。
それは消すほうにとってみれば確かにとても心地よいものかもしれませんが、反面、手を汚さない、冷たい暴力を伴うものでもあるわけです。
「きれい」とは、清潔さ、正常さ、成功、コントロール感、画一性、安心感などの理想像を指して語られています。つまり、「きれい過ぎる」とは、異常さや不確実性、失敗、差異(多様性)、思い通りにならないことを排除しすぎている、ということです。
きれいに(思い通りに)物事が進まないと、とたんに不安になったりイライラする。
周りと違うことをしていたら、おかしな変な人と思われないか気になる。
失敗が怖くて、不確定なことにはチャレンジはしたくない。
自分と違う意見を言われると、否定されたと感じる。
正論ばかりで、反論は許されない。
そして、きれい「過ぎる」と、ちょっとしたことが過度に気になってきます。「きれい」を求めれば求めるほど、汚れが気になってしまうのです。
同書では「安心を求めすぎると、信頼を失う」とも指摘されています。
大学生の息子のスマホにGPS機能を付けて、常に居場所をチェックしている親の話が紹介され、自分(親)が安心したいために子どもを管理下に置き(コントロールし)、結果として信頼が失われていくといいます。
不安が強く安心を求めすぎると、他人を信頼できず、他人からの信頼も失われ、孤立してしまいます。
つながりの喪失が更なる不安を呼ぶため、安心を求めるほど安心できなくなる。
まさに、安心、安全、ポジティブさに潔癖(中毒)になってしまうのです。
多くの生きづらさの原因の一端は、このような「理想的な人間でいなければならない」という社会の期待によって、「人間らしさ」が奪われる、そんな冷たい暴力の影響にあるのかもしれません。
まとめ
「立ち止まったり、しゃがんだりしないで、下を向いているヒマがあれば前を向いて歩きだした方がいい」というポジティブさは、もちろん大切です。
しかし、いつでもどんな時もそうできるほど、私たちは強くありません。
凹めない人が増えているとしたら、凹ませてもらえない、凹むことを許してもらえないからであり、凹んでほしくない人が増えているからでしょう。
転んで膝をすりむいて泣く子がいると、早く泣き止んでほしくて、第一声が「痛いの痛いの、とんでいけー」になりがちです。
まずは「痛かったね」となでてやる、気持ちを言葉にして共有する。
その一言・ひと手間、痛みを共有する時間は、忙しい現代において特に、大きな意味を持つのではないでしょうか。
「優しさ」とは、「人の憂い」に寄りそうと書くように、もっと安心して凹める、やさしい世界が広がってほしいと願っています。